決断のためのルール 2024年9月23日
先日の鈴木さんの輪読会ではテキストの第30章「新たなる始まり」 決断のためのルールのところだった。
そのルールの一番目に「今日、私は自分一人では何も決断しない」が書かれている。
「あなたは依然として自分で心を決めている。そうしておいて、その後で、自分が何をすべきか尋ねるという決断をする。 そして、あなたが聞く答えは最初にあなたが見た通りの問題を解決しないかもしれない。これが恐れにつながる。 なぜなら、それはあなたが知覚するものと矛盾し、そのためあなたは攻撃されたように感じるからである。」
母親と子供が店の前を通る。 そこで子供はアイスを見つけて立ち止まってしまう。 子供は母親に買って,買ってと執拗に迫る。 母親は「ダメ! さっき食べたばっかりでしょ。」と言う。 子供はそれでも泣き叫んで動こうとしない。 母親は強引に子供の手を取り、その店の前を離れる。
よく見かけるシーンだ。 そして大人になった今でも、自分の起きてほしい事柄や体験したい事柄が起きなければおもしろくない。 もし神に願掛けをしていたら、神は自分を裏切った、もしくは自分がその願いを聞いてもらえない原因(罪)があると思うだろう。
上記の例で言えば、子供は信頼し、依存している母親にわけのわからない拒絶をされたと思うだろう。
テキストにはこれを「攻撃」と書いてある。
子供には、アイスを食べ過ぎたら、お腹を壊すという危険がわからない。
我々大人もたいして変わらない。 その願いや計画が子供がお腹を壊すように、自分に悪影響を与えることがわかっていても喫煙や過食をする。 それに自分の思い描いた「いいこと」をしようとしているのに、神にも文句をつけられなようなことだし、他人のためにもなり、自己実現感も得られそうなことなのに、うまくいかないことが多々ある。 または誰も傷つけるわけもなく、損をさせるわけでもないし、贅沢をするわけでもないのに、事が自分の思った通りに進まない。 それどころか手痛い障害を受けたりする。
こんな時、神なんていないのか、いたとしても神は自分に無関心なのか、それとも自分に拒絶される原因(罪)があるからだと思うだろう。
しかしこのいずれの結論も当てはまらないことがある。
ヒトラー政権下でユダヤ人であったフランクルは収容所に入る前から一つの人生の目標があった。 それはフロイドでもなく、アドラーでもない、自分が発見した新しい療法を確立することだった。 それがロゴセラピーだったのだが、彼はこの草稿をコートに縫いこんで隠して持ち込んだ。 ところが、ある時、その草稿も丸裸にされて、奪われてしまった。 その時、生きる意味が失われたと思った。絶望した。 しかし次に支給された囚人服のポケットに、小さな祈りの言葉が書かれた紙片を見つけた。この囚人服を着ていた人が隠したのだろう。(その人は死んでしまったに違いない。) そこには「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」…申命記6-5が書かれてあった。 そしてこれがきっかけとなり、彼はこの奪われた草稿に書かれた理論を最後に残った自分の身体で実践してみたらと神に問いかけられたと思い、Yesと答える。 生きる意味を見出す。 逆に、もし草稿がそのまま残っていたら、死んでいたかもしれない。
ここで我々はこう思うだろう。 とくにひねくれた私などはこう思う。 これはあの偉大な精神科医のフランクルだったからだ。 フランクルは神にとって、そしてこれからの人類にとって特別な存在だったのだ。 だから神はフランクルの命を救ったのだ。 そうなると、フランクルの死んだ父母や、兄や、妻は神にとってそれほど価値がなかったということになる。 もっともこれは神がいればの話だが。
フランクルはこう語った。 有名な言葉だ。
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。」…「夜と霧」
「人生から何をわれわれはまだ何を期待できるか?」は上の例で言えば、子供がアイスをねだるようなことだ。 つまりアイスが手に入るのは母親次第だ。
それに対し、「人生が何をわれわれから期待しているか?」は決断の主体を自分に取り戻している。 我々がそれにYesというか、Noというかは我々が決めることだ。
フランクルが身ぐるみはがされた時、囚人服のポケットに隠された紙片を見て、別の人なら、そのまま棄ててしまったかもしれない。 何も感じなかったかもしれない。 こんな祈りをしても、結局死んでしまった。 無意味だと思うかもしれない。 しかしそのほんの小さなことにフランクルは意味を見い出した。 つまりフランクルが偉大な精神科医だったからではなく、その小さな紙切れに意味を見い出したからこそ偉大だったのだ。
話を元に戻そう。
わたしが先日のZOOMでこの母親と子供のたとえ話をしたところ、私の思い描いていたシナリオとはおよそ違う答えが返ってきた。 それはAtsukoさんという方の発言だった。
Atsukoさんはご自分の昔の経験を話された。 同じようなシチュエーションだったが、幼い娘さんは母親であるAtsukoさんにお菓子(グミ?)をねだった。 でもAtsukoさんは子供の喉にひっかかってしまい、窒息するかもしれないと恐れ、「ひっかかってしまうからダメよ」と娘に言って買ってあげなかった。 その時、娘は「よく噛んで食べるから大丈夫だよ」と答えた。 この時の娘の反応が忘れられないとおっしゃった。
わたしはこの話を聞いて、神が私たちに本当に求めていることが何なのかが一瞬わかったような気がした。
神は私たちに、「我とそれ」ではない、「我と汝」の対話を求めている。 これはマルティン・ブーバーが言ったことだが、ダイナミックで、生き生きしていて、画一的でない交わりだ。 Atsukoさんが娘さんから「よく嚙んで食べるから大丈夫」と言われた時、その娘の成長と思考力に気づいた時の喜び、驚きはどれほどのものだったろう。 我々の神もその時、喜んだに違いない。 その時、神と我々の違いは明確でありながら、同時に対等だったのだ。
神は「今日、私は自分一人では何も決断しない」と決意した人をこの上もなく愛するだろう。 それはその人が神自身をのけ者にしない、無視しないことの意思表示だからだ。 ニーチェやサルトルのように、神に頼らない。自分のことは自分で決める。 自分の理性が決める。 その代わり責任も自分で取る。それこそ「実存」なのだと言って、神と分離独立したつもりになった人を神は悲しそうに眺めているだろう。
一方、神と分離せずに、自分自身では何も決断しない、いつも、どんな時も神に従順な生き物、「神のよいこ」とは、まさに人間以外の生き物だ。 犬や猫や鳥や魚や昆虫や樹々は神と分離せず、本能に従って生きているのであり自分自身だけで何も決断しない。 だから私たち人間は時としてそこに崇高さを見出す。 しかし神が最も喜ぶのは、そこではない気がする。
用語の解説の「1心-霊」の最初に出てくる言葉、
「心という言葉は創造エネルギーを供給して霊を活性化させる主体を表すために使われている。 中略 霊とは神がご自身に似せて創造した神の想念である」
我々人間との交わり(対話)の中で、自分に似せた霊(想念)を活かす人間の心と共に創造したい。 それが神の本音なのだろう。 人間の方は泣いたり吠えたり、怒ったり、笑ったり、甘えたり、無視したり、歓喜したり、呪ったり、文句を言ったり、ズルをしたり、様々なことをするだろうが、人間が神と交わりがある限り、全面的に赦し、祝福するだろう。 私たちに罪はないというのは結局そういうことだ。
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