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「見つめ合い」のこと

2024-11-25 09:43:51 | ノート

「見つめ合い」のこと

「見つめ合い」とは、この頃、ZOOMで行われるワークの一つだが、キリストの顔を見るんだよと言われて、なんのこっちゃ、よくわからん、と思ったのだが、確かに言葉にならないものが、そこで感受されるのは間違いないことで、その言葉にならないものを「キリストの顔」と抽象的に表現したのだろうと、まあ、思っていた。

ただ、レヴィナスという哲学者の「全体性と無限」に、この「顔」というタームが出てくる。 

レヴィナスは、こう言う。

我々は欲求に基づいて生きている。 例えば、目の前にあるものを食べるということは、自分でそれを口に入れて、咀嚼して自分の一部にすることだ。 欲求を充足させたということによって世界が一部消滅し、その消滅した一部は私の中に入ってきた。 つまりここで、ある意味では私は部分的に世界と合一できたことになる。

ところが、他者はどうだろう。 

「見つめ合い」では、身体的には他者の顔を見る。 しかし、どんなにその顔を見ても、その人と同じにはなれない。 それどころか、自分との違いが見えてくる。 食べ物みたいに、その人を取り込むことはできない。 合一化することはできない。 

レヴィナスに言わせれば、「顔」は「真の他者」を表している。 求めても決して得られない他者がそこにいる。 理解ができないがゆえに、その視線は顔を通り越して、無限の彼方へと動いていく。

この無限の彼方が「キリストの顔」なのだ。

逆に、安易にワンネスという言葉で、「見つめ合い」を概念化してはならないと思う。 簡単に合一化できるとか、合一化できそうな部分をその顔の表情に探すとかではない。 いわゆるCompassion(共感)とは、ちょっと違うようだ。 

なぜ、「顔」なのか? 顔は日常で、最も直接的に「他者性」と向き合えるものだからだ。

ここにパラドックスがある。 

この真の他者性の向こう、理解できない、得られないものの向こうに、無限があり、全てに共通する「キリストの顔」がある。 ワンネスがある。 それはこの現象界の中で、五官を越えて、垣間見ることができる神秘なのかもしれない。

それは、厳しい自然の中で、畏敬の念が浮かぶほどの光景を見た時と同じようなものなのかもしれない。
ある宇宙飛行士は、宇宙遊泳をしていて、ヘルメットの外側がまったくの真空の時、神の臨在をダイレクトに感じたと言う。 

、、、、、、、 レヴィナスの表現を借りて、自分の考えを作り出してしまった。

 



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