今朝見た酷い夢
それは、妻と私が口論しているのだが、妻はまったく私の話を聞こうとしない。 私が話す数秒の時間も与えず、その話が途切れることがない。 異常なことに妻はずっと私を非難する内容を一瞬も休まず、私に訴えている。 ところがその内容はさっぱりわからない。
そんな夢だった。
目が醒めて、その原因が即座に分かった。
私は朝、目が覚めてすぐに本の朗読を聞き出したのだが、二度寝してしまったのだ。
目が醒めて、再びその女性の朗読を聞き出した。
そうしたら、その内容は心温まる素晴らしいものだった。
でも、実はその素晴らしい内容よりも、この落差に心底びっくりした。
そして、この夢から目覚めへの移行を、そのまま今、感覚している現象から実相への移行に平行移動するように理解することができると直観的に思った。
実際、私の寝ぼけた脳に起こったことは、音波が外耳道を通って鼓膜に到達し鼓膜が振動し、その振動が耳小骨に伝わり、小骨は振動を増幅し、内耳へ伝え、振動が内耳のリンパ液を通じて蝸牛に伝わり、蝸牛内の有毛細胞が振動を感知し、有毛細胞が刺激されると、神経伝達物質が放出され、それが聴神経の終末部を興奮させ、聴神経で電気信号(活動電位)が発生し、この電気信号が脳へ伝えられ、音として認識されたということ。
さらに認識された音が、言語として判断され、その内容を把握したということ。 音の認識から、その内容の把握までは、今の脳科学でも完璧に説明できないような、恐らくもっと複雑な経過をたどるのだろう。
そんな恐ろしく複雑で高度なメカニズムが、こんな恐ろしく凡庸な私におこっているのがそもそも不可思議なのだが、夢を見ている時も、目が覚めている時もどちらも、私にとって現実である。 というか、これが本当だろうか?という疑念がまったく浮かばない。 だから夢の中で、妻が話している内容が、私への非難であること以外理解できないとしても、それが不自然だとは思っていない。 只々、自分の意思が妻に伝わらないのが、もどかしく、苦々しく、苦しいのだ。 そしてそのクオリア(質感)は目が覚めている時とまったく変わらない。
そして、いったん目が覚めると、それらがみな幻想だったということが判明する。 何らかの外部からの刺激がトリガー(引き金)となって引き起こされた、自分の内で、自分が創り出した幻想(文字通り、夢)であることがわかる。
同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になる。 違いは、同じメカニズムで動きながら、夢の中では音信号が言語内容の認識にまで至らなかったという点だ。
「感官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それらは彼の敵であるから。」…バガヴァッドギータ 3ー34
夢の状態→目覚めの状態、目覚めの状態→実相の状態では、目覚めの状態までは、同じメカニズムが機能している。しかし目覚めの状態で機能していたこのメカニズムは実相の状態ではまったく機能しなくなる。 実相を言語化しようとするとことごとく失敗するのは、そのせいなのだろう。 禅で言うところの不立文字、教外別伝のことだ。
だから、実際、実相の状態でいるということを説明するのは不可能なのだが、敢えてそれを試みれば、何回も教えられた「風船とコブ」のメタファーになる。
この時、風船の中から自らのコブを見る。 見ているものは同じであっても、コブがコブを見る時(同一化=巻き込まれている状態)と、風船の中からコブを見るのとではまったく異なってくる。 これが先ほどの同じ音信号が一方で苦痛になり、一方で至福になることに似通っている。
もう一つ、 「風船とコブ」のメタファーで見落としてはならないのは、我々が風船の内にいるときは、個人が無くなるということだ。 (そもそも、コブというメタファーは個別化のことだから。) したがって「風船の中から外を見る」という表現も、誤解を生むかもしれない。 個我が風船の空気の中で漂っている、自分が風船と言う温泉の中に多くの人といっしょに入っているというイメージは正確ではない。 ラマナ・マハルシなら、こう聞くだろう。 「温泉の中に入っていると思っているのは誰か?」と。
ラメッシ・バルセカールは悟りとは「現実に見えたことが、実は非現実であるという突然の理解」だと言う。 これは今朝私が見た夢から醒めた時のような突然の理解になるのだろう。
バラタの子孫よ 恐怖の撃滅者よ
全ての生物は幻影の中に生まれ
自らの欲望と憎悪より生じた
二元相対の世界を実在と錯覚している
… バガヴァッドギータ 7-27
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