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自由とは他者から嫌われることである。

2024-11-14 10:32:10 | ノート

自由とは他者から嫌われることである。

○ 「嫌われる勇気」

これは300万部を越えてベストセラーになったアドラー心理学の「嫌われる勇気」(岸見 一郎 、 古賀 史健著)の162頁に出てくる、ちょっとギョッとする言葉だ。

アドラーはオーストリアの精神科医で、この時、オーストリアにはなんと、フロイト、ユング(この人はスイス人、あとは全部ユダヤ人)、アドラー、フランクルという心理学の豪華キャストが活躍していた。 それだけでちょっと興奮してしまうのは私だけだろうか。

この本の主旨は、
「自らの生について、あなたにできるのは、「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。 一方で、その選択について、他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。」 …P143

○ わたしとは鏡に映った自分だ。

この書の一番のポイントはここのところで、日常、どれだけ我々が他人の視線を気にしているかに気が付かされる。 ジャック・ラカンは鏡像段階という言葉によってこのことを明確に記述する。 

「私とは誰か。 わたしとは鏡に映った自分だ。 他人に見られている自分だ。」

幼児は鏡に映った像に興味を示し、かつ、映った像をかわいくしていこうと思うようになる。 それが幼児の段階でとどまらずにその後ずっとこれを引きずっていく。

他の動物は鏡を見ても、このような反応をしない。 鏡に映った像が、生きていなことがわかったら、興味を失う。 これは人間として生まれた抗うことのできない性質だ。

私なんて酷いもので、こんな文章を書いてSNSに載せても、ほとんどの人が読んでくれないのに、それでもやっぱり気になる。 ZOOMで話したことが後で、あの人はどう受け取っただろうか? 嫌われなかっただろうか? とか気になってくる。 書いたことも、話したことも、みんな自分の愚かさを露呈するだけで、つくづく無意味だと思う。それなのに、こうやって文章を書くことを、誰に見せるでもなく、40年以上続けている。 自分の考えを整理するためだとか理由をつけているが、それも怪しいものだ。

○ 承認欲求

承認欲求は悪いものではない。 子供のころから、親に、学校に、地域に、会社に、自分が行動したことが承認されているかどうかをチェックしながら我々は育ってきた。 これは社会に適応するためには、必要なことだ。 必要なことだし、我々の性質の一部でもある。 でも、それが単なるチェック機能を越えて、それそのものに意味を見出し、欲求の目的になったら、自己破壊につながってしまう。 お笑いでも、大衆に受けようと意識すれば意識するほど、その芸はつまらなくなる。 視聴率ばかり気にする番組は通俗的になる。 
アドラーは承認欲求を通じて得られた貢献感は自由ではないと言う。 それは、そうだ。 常に我々は他者からの承認を得なければ、貢献感を得られないのだから。 他者からの承認は他者の課題であり、我々はコントロールできない。 しかし後で述べるが、この他者への貢献感が共同体感覚の鍵となり、共同体感覚が「嫌われる勇気」という言葉から連想される「人の迷惑を考えない自己中」という概念を払拭する。

「自由とは他者から嫌われることである。」はまず受け入れがたい。 普通、自由と他者からの承認が両立できないはずはないと誰もが思うだろう。 でもこう言い直したら、少しわかりやすくなるだろう。 「自由は、自分の言動が他者から嫌われることを恐れていたら、得ることはできない。」

○ 「自分の中に毒を持て」

岡本太郎が、「自分の中に毒を持て」と言ったのも、そういうことだ。 自分の中の毒(弱点、欠点、欠陥)を直視し、ある意味で開き直って、自分の中の「絶対感」によって生きるということ。 他人の評価や期待に縛られない。 それが自由だということ。

ある時点で、自分はこれがやりたいと思ったら、それをやればいい。そこで表現されたものが、他人にどう受け取られるかは、けっしてコントロールすることはできない。 というか、コントロールしてはいけない。 

○ コントロールするということ

広告会社が、マーケティングの手法を駆使して、ブームを作り出そうとする。 似たようなことを政府もやって大衆を操作しようとする。一例をあげれば、私たちは知らない間に、韓国人や中国人を嫌いになっているとしたら、もうすでに我々はコントロールされている。 私たちはすでにスマホが無ければ生きていけないと思い始めている。 しかし数年前まではそんなものは一切なくても、何の問題もなかったのだ。

フロムが「自由からの逃走」で言うように、ハイデガーが頽落と言うように、私たちは他人のやっていることを絶えず気にして、その中で無難に生きようとしている。

○ 課題の分離

アドラーはここで、「課題の分離」という言葉を提出する。 我々は知らず知らずのうちに自分がコントロールできない課題を、コントロールできる課題と混同してしまう。 それに気が付いて、はっきりと分け、自分がコントロールできる課題のみに集中しなさいということだ。

○ ニーバーの祈りとアドラー心理学の対応

「嫌われる勇気」にも出てくる、アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバー(1892-1971)の祈りにポイントが凝縮されている。

********

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。

これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

アーメン
*************

最初の「変えることのできないものを静穏に受け入れる力」は、
アドラーが言った「自己受容」=肯定的なあきらめに対応する。

「変えるべきものを変える勇気」は、
「嫌われる勇気」に対応する。(勇気という言葉は、アドラーでは大切な概念だ。 勇気とは他者からの承認が得られない壁を打ち壊すことだから。)

「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」は、
まさしく「課題の分離」に対応する。

「一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、」は、
アドラーの言う「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生に対応する。 エネルゲイア的とは、いわゆる「Be here now」のことだ。

そして
「これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。」は、
アドラーの言う「過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」の共同体感覚」、非二元的に言えば、ワンネスにに対応する。

○ 共同体感覚

アドラーの最大の特徴の一つはこの「共同体感覚」を提出したことだ。 その共同体感覚の具体的内容は、ニーバーに言わせれば、この罪深い世界をそのまま受け入れ、神の計画に身を委ねて、この世界に貢献していくことであって、嫌われる勇気を持った迷惑な自己中ではない。

そしてアドラーは他者貢献とは、目に見える貢献でなくとも構わないという。

「あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。 本当に貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくても、「私は誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てればそれでいいのです。」…P252

○ 非二元や奇跡講座の落とし穴

さて、ここで非二元や、奇跡講座を学んでいる人が、陥りやすい落とし穴を述べたいと思う。 もちろん、私自身がその落とし穴にすっぽりハマってしまい、苦労したのであり、私だけがハマってしまったのかもしれないが、なぜ今、ここで述べるのかと言うと、それはアドラー心理学に救われたからなのだ。

非二元も、奇跡講座も、我々自身が世界を投影していると説明する。 (非二元では我々がというよりも「意識が」ではあるが。) この世は我々(意識)が作り上げた幻想なのだ。 そうするとどうなるか? 奇跡講座の説明で言えば、我々は分離してこの世界を作り上げた罪悪感を、他者に投影している。 物事がうまくいかないのも、悲惨な現実なのも、それは他者に原因があるとしてしまう。 そこで、他者は我々の作り出した投影にすぎないのだから、自分に引き戻しなさいと教える。 他者が原因ではない。自分が原因なのだと。 

そこで、愚かな私はこう思う。 私がおこなった行為を他者が承認しないのは、私が原因なのだと。 他者が批判するのも、無視するのも、褒めるのも、承認するのも、拒絶するのも、みな、私のせい、私が原因なのだと。 世界は私のエゴの投影であるならば、他者が私を拒絶することは、私が私を拒絶することになる。

したがって、分離した私は、絶えず他者を気にするようになる。 そして他者の代表はなんと「神」なのだ。 だから、他者に拒絶されることは「神」に拒絶されることになる。こいつは酷い。  

これに対して、アドラーはそれは自分と他者の課題の混同をしているんだよと忠告してくれる。 「他者のことは気にしなくていいよ。 自分の信じる最善の道を選んで、突き進みなさい。」と言ってくれたのだ。

○ 奇跡講座の「課題の分離」の方法

奇跡講座は、他者を作り出した自分から、自分の心の内に戻り、「決断の主体」を思い出し、正しい心を選ぶことを「赦し」として位置づける。 つまり他者に拒絶され、世界に拒絶され、神に拒絶された状況から、それらの一つ一つを、その都度、その都度、祭壇に捧げていくことによって、原初の状態に戻っていく。 その時、拒絶する他者も、拒絶する世界も、拒絶する神も最初から無かったものとして消えていくのだ。 これが奇跡講座的「課題の分離」の方法なのだ。

実は、私はしっかりと内には向いていなかった。 自分の行為の判断基準が外の他者の評価、承認に支配されていたのだ。 本当に自分に向かわなければならない。 他者がどう反応しようと、結果がどうなろうと、自分のすべきことが支配されてはならない。 もちろん、世界が私の投影であることは変わらない。 他者が私を拒絶するなら、その認識は間違いなく私の中でおこっていることであり、それは否定することはできない。 そっくりそのままが、私の現状なのだ。 それでもその行為の結果に執着してはならない。 それはもう、コントロール外、別の言い方をすれば、私を越えたものなのだ。 なぜなら、それはすでに聖霊の祭壇に捧げられ、私の手を離れてしまったからだ。 

○ バガヴァッドギータの「放擲」

バガヴァッドギータはこう述べる。

「行為の結果への執着を捨て、常に従属し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していても、何も行為をしていない。」 4ー20

「行為のヨーガに専心した、真理を知る者は、「私は何も行為しない」と考える。 見て、聞き、触れ、嗅ぎ、食べ、進み、眠り、呼吸しつつも。」 5-8

アルジュナは同族が殺し合いをするという板挟みに、戦意を喪失してしまった。 それをクリシュナは諭す。 その一つが、「行為の結果を動機としない行動的知性をもつこと」だった。

結果がない行為なんて、あり得ない。 行為には必ず結果が良かれ、悪かれ、ついてくる。しかしこの幻想の世の中にいる限り、なんらかの行為はしなければならない。 だから、その結果への執着を捨てろと言う。 結果への執着が皆無になった行為は、もう自分的には「何も行為をしていない」ことと変わらなくなる。 これがバガヴァッドギータで語られる重要な言葉、「放擲」の意味だ。 「放擲」することは、コントロール外、別の言い方をすれば、私を越えたものに全てを委ねる、奇跡講座の聖霊の祭壇に全てを捧げて、自分の手を離れることと同義である。

アルジュナは王子であって、古代インドのバラモン族社会で確立された王族や武士の階級であるクシャトリアに属していた。 彼の仕事は人民の保護、統治と支配、布施と祭祀の実施と決まっていた。 だから、これに適う行為をしなければならない。 その行為が悲惨な結果を生んだとしてもやらざるを得ない。 実際、クリシュナに説得された後、アルジュナは恐れていた通り、同族の殺し合いに巻き込まれ、頼みの綱だったクリシュナも死んでしまい、戦いには勝ったが、最期には王位を譲り、巡礼の旅に出て、ヒマラヤに行って力も衰えて死ぬ。 アルジュナも、すべてはインドラたち(神々)の作り出した幻影、お芝居、リーラ(遊戯)、ドラマの一演者だったのである。 (つまり非二元の言うところの、「意識」による幻影) 

○ バガヴァッドギータの主張の本質と奇跡講座のコペルニクス的転回

バガヴァッドギータはその話がどんなにドラマチックで、エキサイティングであったとしても、この世の中の人間の存在の虚しさをとことん述べており、その救いようのない世界(現在で言えば、原爆が二度にわたって日本に落ち、戦争と殺戮と不義と偽りが今も続いている世界)は変わらないことを表現している。 だいぶ悲観的だが、その泥沼の中で、どうやって生きていくかを模索した物語だったのだ。 「放擲」はその意味で、神々のリーラ(遊戯)に対抗する一つの手段であったと言っていいのかもしれない。 シェークスピアのリア王の悲劇的状況から逃れる唯一の方法。 それはこの状況はただの演劇であり、自分は芝居をしているだけだと気が付くことなのだ。 

「メッセージ」というSF映画がある。 この映画はサイエンスフィクション、宇宙人との接触、という、ああ、またかというような予想をしていたが、それが見事に裏切られた。 この映画は、まさにバガヴァッドギータの伝えたい内容と一致していた。 それはたとえ、自分の娘が死んでしまうことが確実に予知できたとしても、やはり自分のやるべきことをやっていくことに変わりがないということだ。 課題の分離はここに極まる。

そして、この悲観的、絶望的状況を、その状況をそっくり認めながら、ひっくり返したのが奇跡講座なのである。

奇跡講座はそのコペルニクス的転回によって悲観的、絶望的状況を、祝福されたものに変えた。 奇跡講座のどの箇所をとっても、一貫して喜びに満ち溢れている。 
それは聖書の次の言葉を最初から最後まで裏付けている。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 ヨハネ16:33

…… また「勇気」という言葉が出てきた。

 



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