晴れのち曇り。あさ、吹田市議会の共産党市議が「吹田事件」の史実をゆがめるなという発言を公明党の議長が議案の範囲外発言だとして議事録から削除を決定したという「しんぶん赤旗」の記事。
記事を読むと、2月議会で、1952年の「吹田事件」について、自民党市議が市立図書館のメールマガジンで「朝鮮戦争反対のデモ行進に対する弾圧事件」と紹介していることに異議を唱え「市内を恐怖のるつぼに陥れた政治的な武装デモだった」という作り話をして、市当局がその“指摘”を「誤解を招く表現だった」と「訂正」を答弁したことに対し、柿原まき議員が「歴史を修正することは許されない」「関係者の名誉を回復するとともに、改めて郷土の歴史として正確に伝えること」を訴えたという。吹田と北摂に生きてきた市民として議事録から削除された柿原議員の発言(柿原まきブログ)を全面的に支持し議長の「決定」の撤回を求める。
「吹田事件」とは。1952年6月24日、豊中市の阪大北校で大阪府学連が開いた「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕べ」に青年・学生・労働者・朝鮮人ら約2000人が参加し、集会後二手に分かれてアメリカの軍事輸送に反対するデモ行進を行い、吹田操車場の労働者を励まし、吹田市民「朝鮮戦争即時停戦」「アメ公帰れ」を訴えたデモ参加者を764名の警官が国鉄吹田駅で拳銃とこん棒で血の弾圧をおこなった事件。198名が逮捕され、111名が起訴された。最高裁まで20年に及ぶ裁判の結果、騒擾無罪が確定した(「吹田事件」と裁判闘争)。朝鮮戦争への軍需物資輸送に反対し平和を求めた青年たちの抗議の行動をなぜ犯罪視するのか。アメリカいいなりの戦争する国づくりへ突っ走るいまの自民党の地金が見えるうごき。
ぼくは、1960年代当時「大阪青年新聞」の記者として大阪地裁の法廷で温厚な植松元夫被告団長の切々とした母親想いの陳述を耳にした。いまもその光景が瞼に残る。きょう「吹田事件」と裁判闘争を読み返す。反戦平和のたたかいはアメリカいいなりの戦争準備が加速するいまこそ重要な時機や。写真は、吹田事件関係と千里南公園の葉桜、花屋さんのクレマチス、長屋裏のカタバミ群生。
お昼は、パスタ・トマトソースとインゲン豆とベーコン。
午後、南千里のフードショップへ。キヌサヤとバナナ。
早々と葉桜なりし季動く 昇龍子