雨のち曇り。午後黒雲が現われあたり一面暗くなる。台風19号が日本列島をうかがっているというニュースとダブって不気味な予感がする。台風にはとんと無力なアべ政権。黒雲を見るだけで身構えてしまう。千里桃山台で銀杏並木の鈴なりをみた(写真)。わが輩は家があるからいいけど銀杏諸君は風雨吹き曝しだから可哀そうだね。
部屋に戻って岡本良一著「大坂城」を読む。秀吉亡き後の冬・夏「大坂の陣」で天守に籠った秀頼・淀殿が自害して豊臣氏滅亡に到った大坂城史。徳川天下の時代になり松平忠明が城主となったもとでの大坂城再建の歴史も明らかにされる。真田幸村がつくったとされる玉造・三光神社境内にある“真田の穴”は「実は真田が掘ったのではなくして、ぎゃくに前田あるいは藤堂・井伊といった寄せ手が掘ったものと考えるのが、むしろ理屈に合っているいる」と書いておられるのも印象的だった。事実と違ったとしても「真田の抜け穴」とした方が太閤びいきの大阪人にはうけるのだろう。訂正されずいまも、大坂城から地下をくぐって抜け出る“真田の穴”として保存されている。
それにしても、大阪で太閤秀吉人気がいまも高いのはなぜだろうか。ぼくは、名古屋生まれで三河育ち。信長も秀吉も家康も愛知出身。小学生のとき、矢作川の橋のうえで日吉丸が自分の懐で温めた草履を親方信長に差し出したという噺に感動したが、鳴かぬなら殺して見せようホトギスが信長、鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギスが秀吉、鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスが家康、という風に三将軍の性格の違いを学んだこともある。ただ力が強いだけではダメ、人の生き方・性格も大事だぞ、と。
戦国武将・武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」のことばを想い出す。山から石を切り出して石垣の城を普請したのは信長が最初らしい。秀吉はさらに土木技術を極めて築城したという。ぼくは人をお城のようにだいじにする社会・政治をのぞむ。
黒雲の張り出す銀杏並木道 昇龍子