昨日、プライベートなことで40代半ばの企業人と話す機会がありました。
その世代からみると、わたしたちくらいの高齢者は「動じない」世代で、それが羨ましい。
自分たちは少しでも想定外のことが起きるとパニックになってなかなか解決ができない。
どうしてなんでしょう・・・・という話に。
何かあった時に動じる、動じない、でみる世代観というのもふだんは考えつかないことです。
そう云われて自分のことを振り返ると、そういえば、あんまり動じた経験はない・・・・。
鈍感なだけ、あるいは、単に覚えていないだけとかなのかもしれませんが。
彼ら世代の子どもの頃は、高度成長の安定期、たぶん欲しいものは何でも手に入った。
一方で、わたしなどは戦後のモノ不足や食糧難や飢餓の経験もしています。
自分で工夫しなければ、あるいは自分で探さなければ、何も手に入らない時代でした。
片や、衣食充ち足りて、何もしなくても与えてもらえた世代。
能動と受動の差は、体験・経験の多寡とつながるので、そのあたりは大きいと思います。
社会に出て働き出す世代の頃を考えても時代はかなり違います。
わたしたちの頃は、これから高度成長に向かうという時代で、売り手市場。
かれらの時代は、バブル崩壊して、就職氷河期だったはずです。
たぶんそのあたりのことも人間形成に影響しているのでしょう。
ただ、二十歳過ぎて経験することと、幼少期から経験すること、どちらが影響大なのか?
やはり、後者の方ではないかと思います。
わたしたち世代の成長期、モノは無かったけれど、未来への希望はふんだんにあった。
かれらの場合は、モノはふんだんにあっても、「閉塞感」の言葉が示すように未来への展望が抱けない。
それは今の時代も続き、たぶん、「人を殺してみたい、人を解体してみたい」ともつながっています。
それは、イノチを大切にする教育などでは救えない、社会の成り立ちにかかわる問題だと思います。
どうすればいいのでしょう?