全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 3

2018-09-10 00:05:30 | 全能神の発表

 ビジョンには、実践すべき道が多数ある。ビジョンには、人間に対する実践的な要求や、人間に知られるべき神の業も含まれて居る。従来は、各地で開催された特別な集会や大規模な集会において、実践の道の一側面しか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践すべきものであり、神に関する認識とは、ほぼ無関係であった。なぜなら、恵みの時代のビジョンは、単にイエスの磔刑のビジョンであり、それ以上のビジョンが無かったからである。人間が知るべき事は、イエスの磔刑による人間の贖いの業だけであったので、恵みの時代においては、人間が知るべきビジョンは、それ以外に無かった。このように、人間は神に関して乏しい認識しか無く、イエスの愛と慈しみに関する認識以外に、人間が実践すべき物事は、ごく少数の簡単な、ささやかな物事、今日とは全く異なる物事しか無かった。従前は、どのような集いであるかを問わず、人間は神の業の実践的認識について議論することが出来ず、いわんや人間が真摯に取り組む最適な実践の道はどれかを名言することは出来なかった。人間は、単に慎みや忍耐の基礎に関する簡単な内容を加えたのみであった。人間の実践の本質には全く変化が無かった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい業を何も行わず、神が人間に要求したのは、慎みと忍耐や、十字架を負うことのみだったからである。そうした実践以外には、イエスの磔刑以上のビジョンは無かった。従来は、その他のビジョンについて全く述べられなかった。なぜなら、神はそれほど多くの業を行っておらず、人間に対して限られた要求のみを行ったからである。このようにして、人間は、何をしたかを問わず、この人間が実践すべき単純で浅薄な物事だけの境界を越えることは出来なかった。現在、他のビジョンについて話している。なぜなら、現在は一層多くの業、律法の時代や恵みの時代の数倍の業が行われているからである。人間に対する要求もまた、従前の時代の数倍多い。人間がそうした業を完全に理解できなければ、その業には大きな重要性が無いであろう。人間は、自分の生涯にわたる努力をそうした業を知るために捧げなければ、それを完全に知るのは困難であろうと言える。征服の業において、実践の道について話すだけでは、人間の征服は不可能であろう。人間に対する要求を除いたビジョンの話だけでも、人間の征服は不可能だとみなされるであろう。実践の道以外に何も話をしなかったとしたら、人間のアキレス腱を突くことも、人間の観念を払拭することも、そして人間を完全に征服することも不可能であろう。ビジョンは人間の征服の主要手段であるが、ビジョン以外に道が無ければ、人間には進むべき道が無く、ましてや成長する手段など無いであろう。これが神の業の最初から最後までにおける原則である。ビジョンには、実践出来るものや、そうした実践からは除外されたビジョンもある。人間のいのちと性質の変化の度合いは、ビジョンの変化が伴う。人間が自らの努力のみに依存するのであれば、人間がそれほど大きな変化を実現することは出来ないだろう。ビジョンでは、神自身の業や神による経営について述べられている。実践とは、人間の実践の道、人間の在り方を指す。あらゆる神の経営において、ビジョンと実践の関係は、神と人間の関係である。ビジョンが除去された場合、実践に関する話無しでビジョンについて述べられた場合、あるいはビジョンのみが存在し、人間の実践が除去されている場合、そうした物事を神の経営と見なすことは出来ず、ましてや神の業が人間のためであるとは言えないであろう。このように、それは人間の本分が除去されたものとなるだけでなく、神の業の目的を否定するものともなるであろう。最初から最後まで、神の業を関与させることなく、単に人間が実践することのみ要求され、そのうえ人間が神の業を知ることを要求されていなかったとしたら、尚更に、そうした業を神の経営とは呼べないであろう。人間が神を知らず、神の心を知らず、曖昧で抽象的な方法により盲目に実践していたとしたら、人間が完全に資質を伴う創造物となることは決して無いであろう。ゆえに、この2つの事柄は、両者とも不可欠である。神の業のみが存在し、つまりビジョンのみが存在し、人間の協力や実践が存在しなかったならば、そうした物事を神の経営とは呼べないであろう。人間の実践と成長だけが存在しているならば、人間がどれほど成長したかを問わず、そうした状況もまた容認出来ないものである。人間の成長は、業とビジョンと共に、段階的に変化する必要があり、気分によって変えることはできない。人間の実践の原則は、自由で無制限なものではなく、一定の範囲内のものである。そうした原則は業のビジョンの段階と共に変化する。このように、神の経営は、結局、神の業と人間の実践ということになる。


全能神教会の御言葉カード

2018-09-09 00:50:22 | 全能神御言葉カード

全能神は言われた。

 万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物は存在しなくなるであろう。万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。

『言葉は肉において現れる(続編)』より


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全能神教会の映画「神を再び磔にするのは誰か」

2018-09-08 00:02:25 | 全能神教会映像

 古守城は中国の家庭教会の牧師です。長年にわたり主を信仰し続けており、常に説教の事におもいを巡らせ、周りに福音を説き続けてきました。彼は福音を説いたために逮捕され、12年間服役しました。刑務所から出所した後も、古守城は教会で働き続けました。しかしながら、全能神の王国の福音が古守城の属する教会にもたらされたとき、彼はそれについて求めたり調べたりせず、頑固に彼自身の思い込みと決めつけにこだわって終わりの日の神の働きを非難し、思い込みと誤謬を広めるためにあらゆる手を使い、信者が真実の道を受け入れるのを妨げようとします。更に古守城は全能神の言葉を読んだ後、その言葉が本当に権威と力を持ち、聞くものすべてを説得する力があることに気づき、全能神の言葉を読んだ者はみな全能神の信者になると深く怖れを抱くようになりました。そして、今の地位と生活が維持できないことを恐れるようになりました。そこで、古守城は長老の王森その他と協議し、全能神を非難し攻撃する中国共産党政府によって流布される噂を利用して人々を欺くことを決めました。古守城と王森は必死で教会に全能神の教えが入らないようにして人々が真実の道を受け入れるのを妨げ、中国共産党の悪魔的な政権と協力までし、全能神の証しをするものを逮捕し迫害します。彼らの行動は深刻に神の性情を侵し、神の呪いがふりかかります。王森は王国の福音を広める人たちを逮捕に向かう途中、交通事故に遭い、その場で亡くなります。古守城は恐怖と絶望の中でパニックに襲われます。彼は頻繁に自問します。「私の全能神への非難は神を再び十字架に磔にすることなのだろうか。」



全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 2

2018-09-07 00:05:20 | 全能神の発表

 従前の時代に比べて、神の国の時代における神の業は一層実践的であり、より人間の実体や人間の性質の変化を対象とし、神に付き従う者全員にとって、一層神自身の証しに立つことが可能なものである。つまり、神の国の時代において神は業を行って自身に関して従前よりも多くを示されており、それは人間が知るべきビジョンがそれ以前の時代よりも高度になっていることを意味する。神の人間に対する業は嘗て無い領域に入ったので、神の国の時代に人間が知っていたビジョンは、経営の業全体において最高に達している。神の業は嘗て無い領域に入っており、人間が知るべきビジョンは、あらゆるビジョンのなかで最高に達しており、その結果となる人間の実践もまた、従前の時代よりも高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完遂は、人間に対する要求の完遂でもあるからである。神の経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まり、神の業無しでは、人間は従前の教義を維持するほかなく、それ以外に方向性は無い。新たなビジョンが無ければ、人間には新たな実践が無く、完全なビジョンが無ければ、人間の完全な実践も無い。一層高度なビジョンが無ければ、人間の一層高度な実践も無い。人間の実践は、神の足取りと共に変化し、同様に人間の知識と経験もまた神の業と共に変化する。人間がどの程度有能であるかを問わず、人間は依然として神と不可分であり、神が一瞬だけ業を止めたとすると、人間は神の怒りのため即刻死ぬ。人間には何も誇るべき事が無い。なぜなら、現在において人間の知識がいかに高度であっても、人間の経験が如何に多かったとしても、人間は神の業と不可分だからであり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき物事は、そのビジョンと不可分だからである。神の業のあらゆる場合には、人間が知るべきビジョンがあり、そのビジョンの後に、神の人間に対する適切な要求がある。こうした基礎となるビジョンなくして、人間は明らかに実践不可能となり、確固として神に付き従うことは出来ないであろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の心を理解しない場合、人間の行いは全て無駄となり、神により認められることが出来ない。人間の賜物が如何に豊富であったとしても、人間は神の業や導きと不可分である。人間の行為がいかに優れているか、多いかを問わず、それらの行為は依然として神の業に代わることが出来ない。ゆえに、いかなる場合も、人間の実践をビジョンと切り離すことは出来ない。新たなビジョンを受け容れない者には、新たな実践が無い。そうした者の実践は真理と全く無関係である。なぜなら、そうした者は教義と死んだ律法を遵守しているからである。そうした者には新たなビジョンが一切無く、その結果そうした者は新たな時代に何も実践しない。そうした者はビジョンを失っており、その過程で聖霊の業と真理も失っている。真理の無い者は偽りの子孫であり、サタンの化身である。どのような者であっても、神の業のビジョン無しで居られることは無く、聖霊の存在を奪われることはなく、つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへと落ちて闇の中で暮らす。ビジョンが欠如している者は、むやみに神に付き従う者であり、聖霊の業を欠いている者であり、陰府で暮らしている。そうした者は真理を求めず、神の名を看板のように掲げる。聖霊の業を知らず、受肉した神を知らず、神の経営における3段階の業を知らない者は、ビジョンを知らず、したがって真理が欠如している。そして、真理を備えて居ない者は、皆邪悪を行う者ではなかろうか。真理を実践することを望み、神に関する知識を求め、神と真に協力する者は、その者のためにビジョンが基礎として機能している者である。そうした者は神により認められる。なぜなら、そうした者は神と協力するからであり、これが人間が実践すべき協力である。


全能神教会の映画「滅びゆく都」

2018-09-05 01:32:41 | 全能神教会映像

 程慧澤は中国にある家庭教会の一員である。彼女は長年にわたって主を信じ、その揺るぎない熱意で主のために働いている。教会では多くの責任を担い、兄弟姉妹の信者を常に思いやる心を持つ。彼女の教会が日に日に荒れ果ててゆくに連れ、教会の神からの離反が目立つようになる。牧師は教会が工場を立ち上げることを精力的に提案して信者を金銭的な富の道へと導き、また中国共産党政府からの支援を得るため三自愛国教会への加入を示唆するが、これが激しい議論の引き金となる。牧師が自分の個人的な利益に固執し、教会の内部分裂も躊躇することなく、信者を誤った道へと導こうとする中、程慧澤は数名の仲間とともに主の道を守り抜き、教会を工場にし、三自愛国教会へ加わることに強く反対する。これに対し教会の長老たちは、牧師の提案に反対すると表明するが、それはあくまでも自身の地位と生活を守るためだけであった。牧師と長老たちは各々の秘密を胸に、互いを妬みながら自身の名声と利益の確保のため争い続けてゆくが、教会内の信心深い信者の大半とその中心的人物が「東方閃電」を論究し次々と全能神に改宗し始めたことを知るやいなや結託し、中国共産党政府の力を借りて、信者が「東方閃電」を学習することを禁じ、その教えに基づいて神の国の福音を説く兄弟姉妹を通報し逮捕させて見せ、「東方閃電」関係者発見の際には警察に通報するよう信者に強く促すなど、弾圧に乗り出した。程慧澤らは、牧師と長老たちが主の道から逸脱して久しく、教会が聖霊の働きを失い、主に呪われた大いなるバビロンのような偽りの宗教の場と化してしまったことを知り、神の明示と御業を求めて「東方閃電」を論究することを決断する。全能神教会の伝道者との熱心な討論の末、程慧澤らは教団の指導者たちが本質的に神に離反していること、また教団が日増しに衰え破滅へと近づいている理由をようやく理解する。その理由とは、教団の牧師と長老たちが聖書を尊重し、解説するのはあくまでも自身の地位と生活を守るためだけだということであった。彼らは人々を混乱させて罠に掛け、神を敬わず証することさえ行わない、神を全く理解しない者たちである。肉となった全能神が現れその働きを行なわれる終わりの日には、彼らは何のためらいもなく反旗を翻し、中国共産党政府と結託して信者を逮捕するように、神の働きを咎めることになる。これは彼らが真理と神を忌み嫌う、悪魔のような本質を所有する何よりの証拠である。彼らは善良な人を装った現代のパリサイ人であり、神が肉となったという真理を否定する反キリストである。既に教団は、神の敵である反キリストの本拠へと完全に化しているが、神の呪いと罰を間違いなく受けるであろう。やがて、教団の指導者たちの反キリストの本質が識別できるようになった程慧澤らは、パリサイ人の混乱と支配から逃げるよう信者に指導し、滅びゆく都バビロンから彼らを解き放つことに成功するのである...


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 1

2018-09-04 00:08:11 | 全能神の発表

 人間に対する神の業は、人間と不可分である。なぜなら、人間はこの業の対象であり、神の創造物のうち、神の証しに立つことが出来る唯一のものだからである。人間の生活とあらゆる活動は、神と不可分であり、神の手により支配されており、神から独立して存在出来る人間は一人も居ないとさえ言えるであろう。これは事実であるので、否定出来る者は居ない。神が行う全ての業は、人類の利益のためであり、サタンの謀に対するものである。人間が必要とする物事の全てが神から与えられ、神は人間のいのちの根源である。したがって、人間は神から離れられないことは明らかである。さらに、これまで神に人間から離れる意図があったことは無い。神が行う業は、全人類のためであり、神の考えは常に親切である。したがって、人間にとって、神の業と思想(すなわち神の心)は、両者とも人間が知るべき「ビジョン」である。こうしたビジョンは、神による経営(救い)でもあり、人間には実行不可能な業でもある。その一方で、神の業の中で神が人間に対して行う要求は、人間の「実践」と言われる。ビジョンは神自身の業であり、すなわち人間に対する神の心であり、神の業の目標であり、重要性でもある。また、ビジョンは経営の一環であるとも言える。なぜなら、この経営は神の業であり、人間を対象とするものであり、つまり神が人間に対して行う業だからである。この業は、人間が神を知った証拠であり、手段であり、また人間にとって最も重要なものである。人間が、神の業に関する認識ではなく、神への信仰の教義や取るに足らない詳細事項にのみ留意するならば、明らかに人間は神を知ることは無いであろうし、それ以上に神の心を追求しないであろう。神の業は、神に関する人間の認識に大いに役立ち、それはビジョンと呼ばれる。こうしたビジョンは神の業であり、心であり、神の業の目的と重要性でもある。これらの物事は全て人間に有益である。実践とは、人間が実行すべき物事、神に付き従う創造物が実行すべき物事を指す。それは人間の本分でもある。人間がすべき事は最初から人間が理解している事では無く、神が業の中で人間に対して行う要求である。これらの要求は、神が業を行うに従って、次第に深く、かつ高度になってゆく。たとえば、律法の時代には、人間は律法に従う必要があった。また恵みの時代には、人間は十字架を負う必要があった。神の国の時代は、それと異なる。つまり、人間に対する要求は、律法の時代や恵みの時代よりも高度である。ビジョンが高度化してゆくにつれ、人間に対する要求も次第に高く、明瞭で現実的になってゆく。同様に、ビジョンもまた次第に現実的になってゆく。こうした多数の現実的ビジョンは、人間の神への服従を促進するだけでなく、それ以上に神に関する人間の認識も促進する。


全能神教会の映画「待ち焦がれて」

2018-09-02 23:51:26 | 全能神教会映像

 2000年前、主イエスは信者達に約束をされました。

 「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14:2-3).その約束が故に、信者たちは何世代にもわたって神の約束が実現することを懇願し、祈り続けてきました。主がお見えになった時に天国へ引き上げられ招かれて、主にお会いできることを願い、祈っているのです。

 この映画の主人公である陳向光も例に漏れません。彼は熱心な信者で、福音を広め、主の再臨を迎えるために主の証しをしていました。教師の職を追われ、家族の理解が得られないにもかかわらず、希望を捨てませんでした。ある日集会に出席していたとき、陳向光は中国共産党政府に逮捕され、刑務所に入れられてしまいます。しかし驚くべき神の定めと采配により、全能神教会のクリスチャン趙智明に出会うのです。趙智明は終わりの日の神の出現と働きについて証しをし、主の再臨を欲し祈る中で陳向光が長年抱いて来た観念や想像をかき消してしまいます。出所した陳向光は終わりの日の全能神の働きを学ぶよう兄弟姉妹を導きます。最後には誰もが天国に引き上げられるとは何なのか、王国は実は天国にあるのかそれとも地上に存在するのか、神の再臨をどう迎え入れるべきであるかを理解するのです。



全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 5

2018-09-01 01:51:47 | 全能神の発表

 これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

 

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