ハル・ノートには抜け道があった!

2011-08-21 | 橋本徹馬
あの悪名高い「ハル・ノート」。
橋本徹馬の著書には、面白い事が書いてある。

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「日本の敗戦降伏裏面史」より

P321

“ハル長官の意味深長なる一言”

尤も、米国側の回答が、野村大使に渡された時、
特に支那及び仏印からの日本軍の全面撤退の項目に関しては、
野村大使からハル長官に対し、
『こんな条件は困るではないか』
と訴えた処が、ハル長官は
「期限がついておらぬ」
と、極めて意味深長の答えをしたそうである。


これは恐らくハル長官の苦心の存する処で、
「日本軍の全面撤退」という支那の主張を受け入れ、支那の面目を立てる一方、
その撤退に期限を付けずに置く事によって、
実際上日本の立場を立てるという態度に出たものである。

だから若し日本側が、飽くまで友好的態度を採り、
日米国交調整を成立させようとする熱意のある内閣であったならば、
少なくともこの1項目に就いては、十分我慢のしょうがある訳であるが、
如何にせん当時の日本の内閣は、何とか口実を設けて国民を導き、
戦争の火蓋を切りたくて堪らぬ内閣であったから、ハル長官の苦心などは全然無視し
「かかる回答に接した以上は、最早起つの外なし」として戦いに入ったのである。

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対訳 ハル・ノート



Section II
第2項

3. The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina.
日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし




↑:ふむふむ、なるほど、「即時撤退」では無いな。

外交文書を読む時は、細心の注意が必要なんだな。


まぁ、ルーズベルト大統領から天皇への親電を東郷がワザと遅れて渡したとかいう話があるが、
ル大統領は最初から日本を対米戦争へと引き摺りこむのが目的だったから、
この親電は猿芝居だったんだろう・・・。



ちょっと難しい話でございますが。

まぁ今言える事は、日本人は歴史を正しく学び、そこから様々な教訓を得て、
今後、絶対に“奴ら”の罠に嵌らん様に冷静に対処する事だな。
尖閣や竹島なんかでカッカするのはあくまでもポーズだけにしておいて、
決して泥沼に引きずり込まれん様にせんとイカン。


円高、ドル不安、株価の暴落、金の高騰、イランを攻めるアメリカ・・・愈々胡散臭くなってきたぞ、おい!

二・二六事件  勅語問答、その②

2007-03-10 | 橋本徹馬
湯浅内大臣は思慮深げな顔をして言った。
『それでは、どう言うお言葉を用いれば良いか、貴方の考えを言って御覧なさい。』

『然らば、御免を被って申し上げます。・・・あのような場合は、
“こういう事件が起こったのは、皆、朕の不徳に因る処なり”
と仰せられるべきものと思われます。
・・・もし今度の勅語が、朕の憾みとする処というお言葉の代わりに、その様に仰せになられたらならばどうであるか?
皇道派も統制派も共に、そのお言葉の前に恐縮して、我々が至らぬ為に、陛下が不徳だと仰せられた。
それは相すまぬ事だと相互に深く反省し、どちらに理があるとしても、この上相克をやって、ご心配をお掛けしてはならぬと思って、相克が収まる方向に向かうでしょう・・。
今度の勅語はその逆であるから、これから一層軍部内の相克が酷くなるでしょう!』


この時、湯浅内大臣は小声で、
『陛下が遺憾に思われたと言う事がどうして悪いか・・・・・・・。』
と呟かれた。そこで私(橋本徹馬)は更に言った。

『国家に不祥事が起こった場合は、我が国柄の上から言えば、如何なる場合にも、“朕の不徳に因る”という勅語を奏請すべきです。
昔の聖天子は天変地異に対してさえ、朕の不徳に因ると仰せられて、御位を譲られた方も有る。
今度の勅語の為に、恐らく軍部の相克が益々盛んになって、国家が禍を被るでしょう!』


・・・・私と湯浅内大臣との勅語問答は以上の様なものであった。
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中略:

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尚、右の如き勅語問答を、数日後に私から当時軍部の相克の渦中にあった
川島義之大将(事件当時の陸相)、真崎大将や林銑十郎大将等に話をし、
他日台湾から帰京せられた柳川将軍にもお話したが、真崎、柳川両将軍は、両目に涙を浮かべて何も言わなかった・・。

川島将軍は同じく涙ぐまれて、

『ああ、もしそういうお言葉であったらばなぁ・・・。』

と言われ、

林将軍(当時の前陸相)は、
『そういう勅語を賜ったのならば、これ程有り難い事は無かった・・・・。
そうすれば万事、うまく行ったのだが・・残念であった。』


と言われ、これも涙を抑えられた。

                                 つづく。


湯浅内大臣との勅語問答。二・二六事件 その①

2007-03-08 | 橋本徹馬
『日本の敗戦降伏裏面史』より。



岡田内閣は2・26事件で仆(たお)れ3月9日に広田内閣が出現。
その5月4日帝国議会に於ける開院式に、天皇陛下の賜った勅語には
『今次東京に起これる事件は、朕の憾(うら)みとする処なり』
というお言葉があった。

この御一言で皇道護持の為と思って決起した連中は、
明白に陛下に対する反逆者となった訳である。

現にその頃熱海の陸軍病院で療養中であった河野壽大尉(湯河原で決起し牧野伯を襲撃した)は、
『陛下の御為めに立ち上がった私が、
夢にも思わなかった叛徒になった・・。』
と嘆いて自決している。



私(橋本徹馬)は彼等が余りにも憐れに思い、
湯浅倉平内大臣にお会いして言った。

『いったいあの勅語は、誰が陛下に奏請したものであるか。
私は甚だ出過ぎた事であるが、お許しを願って論じたい事がある!
あの勅語奏請の責任者は、内大臣たる貴方ですか?』


湯浅内大臣は答えて言う。

『あの勅語の奏請は政府の責任であって、私の与らぬ処である。
しかしあの勅語に対して、貴方に意見があると言われるのならば、
試みに私が承りましょう。』


そこで私は言った。

『あの勅語の中に・・朕の憾みとする処と言うお言葉があるが、
ああいうお言葉があると、叛乱将校に対し、天皇の御憎しみが懸かっている事が、
明らかに観取せられるが故に、所謂皇道派と統制派との間の相克が一層酷くなる。
殊にそれが下々に行くほど鋏状に甚だしくなって、軍部内の相克が激しくなる事を、お考えにならなかったのでしょうか?』


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で、まぁ、湯浅内大臣は「陛下が遺憾に思うのは無理もない、貴方だって遺憾に思うでしょう?」と答えたのね。
そんで橋本徹馬は

『遺憾な出来事には間違いないが、それが国民、軍部に対し、
如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである。
ああいうお言葉があると、それ見よ!陛下は皇道派の事を憤っておられるのだ!
と言う事になって、統制派は居丈高になって行動派に圧力を加える。

 皇道派はまた自分達の心事の方が、統制派よりも遥かに正しいのだという信念のもとに、これを反撃する事になって、軍部の対立に油を注ぐ事になります。
だからあの様なお言葉は、勅語には奏請してはならぬと私は思います。』


湯浅内大臣は思慮深げな顔をして言った。

『それでは、どう言うお言葉を用いれば良いか、貴方の考えを言って御覧なさい。』

                                                    つづく・・・。


二・二六事件の話。

2007-02-24 | 橋本徹馬
明後日は二・二六事件の日。


あのね~・・、事件の名称は知ってるけど、内容はどうも・・・・ってお方へ。

何年の出来事か?と言うと・・・昭和11年2月26日夜中。

11・2・26・・・『いちいち・に~に~ろく』と覚えましょう。

4日間の出来事。二・二六事件

当時の日本は不況で市民生活は大変だったんだな。
特に東北地方の農民は窮乏を極めていた。

「政治家が悪い!クーデターを起こして正しい政府を作り直そう!」

と、若き青年将校達が、それぞれの部下達をひきつれて
各大臣らの家を襲撃して立てこもった。

『当然、大元帥陛下はご理解下さるであろう!』
と思ってたんだけど、あに図らんや!
昭和天皇は激怒されて、彼等は逆臣になっちゃった。


 勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである・・・

有名なラジオ放送。


クーデターは失敗に終わっちゃった。・・と言う訳だ。

青年将校達は、軍事裁判で自分達の思いを主張しようと思ってたんだけど
これが暗黒裁判で、殆んどが死刑!

その年の夏に執行されたんだ。

彼等は決して「悪い」人達では無かったんだ。真面目!
ただ、一途に日本の未来を案じていただけ。
やり方は酷かったが、その思いは汲んでやるべきだった・・・。

陸軍のエライさん、それと昭和天皇・・・。

二・二六事件慰霊像・・・お近くを通られたらば、是非お立ち寄り下さい。
そっと手を合わせて『ご苦労様でした。』と言ってあげて下さいませ。

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現代を生きるお嬢様達へ

昔の日本男児は、みんな真面目で真摯で勇気があって、
責任感が強くって、そして優しかったのです・・・。


貴女達・・
“見てくれ”だとか、服装のセンスだとか、お金持ちだとか、学歴だとか
そんなコトで男の善し悪しを評価してはいませんか?
だめだめだめ!
現代の女性には「男を見る目」が無くなったのです。
昔の日本女性はもっと偉かったのです。
貴女達の「男を評価する基準」が変われば男も変わるのです。

いつの間にやら「バンカラ」学生が居なくなった。
いつの間にやら「天下国家」を議論しあう学生が居なくなった。

女性の質が落ちたのです。
硬派な男は『これではイカン』とある日を境に軟派な野朗に変わっていったのです。
ニーチェやサルトルを読む代わりに、フランス料理やイタめし屋の情報を得る様になった!
本を買う代わりに、彼女に貢ぐ様になった。勉強よりもバイトの方に重きを置く様になった!


貴女達・・・・
古き善き日本男児は、もう要りませんか????

要りませんか、そうですか・・・。
なら仕方が無い。このまま行くしか無いですな~・・・。

続く・・・。






橋本氏は「満州事変」の何を問題としたか!?『日本の敗戦・降伏裏面史』より

2007-02-23 | 橋本徹馬
 それは、板垣石原らの軍律違反を有耶無耶にしてしまい、
おまけに、論功行賞まで与えられた事である・・。
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私は世田谷の真崎さんの処へ行き、その新聞記事を見せながら
『これは一体何事ですか?』と怒鳴った。
真崎さんも顔色を変えて
『いけなかったかな』と言った。
『いけなかったどころではない!
これで皇軍は半ば滅んだことが判らないのですか?』
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橋本徹馬氏の意見はこうである・・。

満州事変は軍律違反を犯した上で成り立った事変である。

中央の許可も陛下の御裁可も仰がずに軍を動かした事は
たとえそれによる結果が、後日正当化されようとも
軍律違反には違いないので、厳しく裁かねばならぬ。

あろう事か、論功行賞まで与えてしまうとは、悪しき前例を作った事になる。

これが先例となって出先の若い連中が、今後も同じ事をする事になる。

従って、この場合、論功行賞を授けるのでは無く
軍の規律を正すが為に板垣、石原らを予備役にしておくべきであった。

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橋本氏は、尊敬していた荒木大将までもが
論功行賞を受けたので、がっかりしたそうである。
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荒木大将は、
『私が受けると言う返事をしてくれぬが為に、話の進め様が無くて困っているという、中村人事局長から来た手紙が残っている。・・・何処かにあったはずだ。』
と言って探しておられたが、私は
『そんな手紙が何通あっても、貴方が論功行賞を受けた事実の否定にはならない。
貴方があの行賞さえ受けずにいて下さったら、
日本にもかく立派な軍人がいると、占領軍にも誇れるのだが、それが出来なかったのが残念だ。』と言った。

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註:この論功行賞の誤りは、数年後の大事となって現れるのである。









対米戦果に「痛快、壮快」…松岡元外相の書簡発見

2007-01-07 | 橋本徹馬
対米戦果に「痛快、壮快」…松岡元外相の書簡発見

橋本徹馬の著書:『日本の敗戦降伏裏面史』に拠ると・・

「最新昭和史事典」:
昭和16年4月16日、米国務長官ハルと駐米大使野村吉三郎に民間私案
『日米了解案』を交渉の基礎として提議(日米交渉開始)。

↑この私案とは、1941年(昭和16年)1月17日、
橋本徹馬氏とホンベック極東顧問が取り交わしたモノが
素案になっていると言う・・。

橋本徹馬氏は近衛文麿首相の密命でアメリカに渡り、
平和交渉をしに行った。
東條陸相
『「三国同盟」をアメリカはどう考えてるのかを聞いてきてくれ。』
と言っていたらしい。

交渉は“ある程度”いや、かなり上手く行ったらしいのだが
橋本氏が帰国すると、近衛東條も会おうとはしなかったらしい。

その理由は:

国内の独伊派の勢力が強くなり、その人々が、橋本の帰国後に
日本を親米に一決させてはならぬ!と、厳重な監視をしていたかららしい。
当時の拓務大臣「秋田清氏」が、独伊派を煽動していたという。

東條陸相も、その権勢を失いたく無い心境から、独伊派を抑え得なかったらしい。


この了解案が、日米国交調整の意見書として提示された時は
近衛文麿首相も東條陸相も及川海相も喜んだらしい。
『これなら難題の日米国交調整も必ず出来る!』と・・・。

ところが、この米国の穏健案に反対していたのが松岡外相だった・・・。

何とか周りの者がゴネる松岡を説得し、漸く回答書を送ったのが
修正案到着後から一ヶ月も経ってからの事であった・・・。