日航機墜落30年 「死ぬまで帰り待っている」娘3人を失った両親、止まった時間
「私、まだ待つからね。死ぬまで帰ってくるのを待ってるからね」
娘3人を一度に失った「あの日」から30年がたとうとする今もなお、兵庫県西宮市の田淵輝子さん(81)は現実を受け入れられない。
これまで体調を崩したときを除いて、春、夏、秋と年3回は必ず事故現場の御巣鷹の尾根に登り、娘たちに“会いに行く”。
「年3回も登ることで気持ちの目標ができる。毎年の繰り返し。けど、そのスケジュールに今日も私たちは生かされている」
行動をともにする夫の親吾さん(86)は、慰霊登山が2人の生きる支えになっていることを明かす。
長女の陽子さん=当時(24)、次女の満(みつる)さん=同(19)、三女の純子さん=同(14)=は、つくば科学万博や東京ディズニーランドを姉妹でめぐった帰りに事故に遭った。
昔から夫婦ともに仕事が忙しかった中、陽子さんは小さいころから妹たちの面倒をよく見ていた。妹2人も「何をするにも姉ちゃんの後をついて行った」(輝子さん)という仲の良さ。当時の旅行も、陽子さんが自分の給料で妹たちを連れて行くという毎年の恒例行事だった。
事故現場では3人とも、ほぼ同じ位置で見つかった。輝子さんは「みっちゃんも、じゅんちゃんも、怖くて姉ちゃんにしがみついていたんだろう」と話す。
■酒で紛らわせた日々…「3年記憶ない」
事故後、輝子さんは悲しさや寂しさを酒で紛らわせるようになった。「3年くらい記憶がない」
当時は3姉妹が帰るはずだった大阪(伊丹)空港の直近に住んでおり、毎日決まって事故機の着陸予定時刻が近づくと、2階のベランダに出ては着陸機を眺めて「あれに乗って帰ってくる」とつぶやいていた。
ウイスキーを片手に仏壇の前に座っては「電話してこい」「何してるの」と遺影に語りかける日々。街中に陽子さんと同じ髪の長い女性を見かけ、しばらく後をついて行ってしまうこともあった。
近所からは「日航から3人分も賠償金をもらえるからいいね」などと、心ない言葉もかけられた。
そんなときに遺族でつくる「8・12連絡会」の発足を知り、親吾さんが輝子さんを会合に連れて行った。親吾さんは「同じ悲しみを背負う遺族同士で話すことで、気持ちのはけ口になったと思う」と振り返る。
■姉ちゃんに「ええ加減にせんかい」
平成元年、夫婦2人暮らしには手広くなった大阪の自宅から、現在の自宅に引っ越した。
近所の人には遺族であることを隠したが、10年ほど前に報道を通じて知られると、花を持って訪ねてきたり、「よう辛抱したね」と声を掛けてきたりする人がいた。今度は優しさに触れた。
輝子さんが酒を飲む日々は続いていたが、約5年前に体調を崩し、体が酒を受け付けなくなった。輝子さんは「姉ちゃんに『ええかげんにせんかい』って叱られたのだと思う」と話す。
それでも娘たちが亡くなったことは信じられない。「姉ちゃんは『私が家を継ぐからお父さんが気に入った男の人を連れてきてくれれば一緒になるよ』と話していた。ずっと一緒に暮らせるって…」
慰霊登山は年齢的に厳しさを増し、今では親族に抱えられて登ることもある。
「私が待っててやらないと、姉ちゃんたち困るでしょ? だから待ってるよ」
それでも輝子さんは、この言葉を伝えに御巣鷹の尾根に向かう。
親吾さんも「元気なうちはというより、生きているうちは登る」と執念を見せる。30年だから特別に何かを伝えるというわけではない。「今年も2人して元気にお参りにきた」と言う。それだけで十分だ。
親吾さんは娘たちの死を受け入れているはずなのに「子供が呼んでいる」と感じている。2人の時間は今も止まったままだ。
520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故は、12日で発生から30年を迎える。時が止まったままの両親、前に向かって歩む夫…。遺族はそれぞれの今を生きるが、空の上にいる「あなた」に伝えたいことがあるのは一緒だ。その30年間の思いをつづった。
■520人死亡 史上最悪の単独航空機事故
東京(羽田)発大阪(伊丹)行きの日本航空123便ボーイング747型機は昭和60年8月12日午後6時56分、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客524人のうち520人が死亡した。現在も単独の航空機事故としては史上最悪の惨事だ。
事故機は約32分間の上下蛇行の末に墜落。運輸省航空事故調査委員会(当時)は、機体後部の圧力隔壁が破壊され、漏れ出した客室内の大量の空気が垂直尾翼や油圧系統を破壊し、操縦不能となったことが事故原因とした。その7年前に大阪空港で起きた尻もち事故で、米ボーイング社による修理が不適切だったため、圧力隔壁に金属疲労の亀裂が広がったとみられる。
60年12月、遺族でつくる「8・12連絡会」が結成された。支え合い、事故原因を究明し、空の安全を追求していくことが目的。日航に事故を語り継ぐための施設整備を働きかけ、事故後22年目に遺品や事故機の残骸などを展示した「日航安全啓発センター」がつくられた。現在は日航内でも社員の9割以上が事故後の入社となっており、風化防止が課題となっている。(福田涼太郎)
「私、まだ待つからね。死ぬまで帰ってくるのを待ってるからね」
娘3人を一度に失った「あの日」から30年がたとうとする今もなお、兵庫県西宮市の田淵輝子さん(81)は現実を受け入れられない。
これまで体調を崩したときを除いて、春、夏、秋と年3回は必ず事故現場の御巣鷹の尾根に登り、娘たちに“会いに行く”。
「年3回も登ることで気持ちの目標ができる。毎年の繰り返し。けど、そのスケジュールに今日も私たちは生かされている」
行動をともにする夫の親吾さん(86)は、慰霊登山が2人の生きる支えになっていることを明かす。
長女の陽子さん=当時(24)、次女の満(みつる)さん=同(19)、三女の純子さん=同(14)=は、つくば科学万博や東京ディズニーランドを姉妹でめぐった帰りに事故に遭った。
昔から夫婦ともに仕事が忙しかった中、陽子さんは小さいころから妹たちの面倒をよく見ていた。妹2人も「何をするにも姉ちゃんの後をついて行った」(輝子さん)という仲の良さ。当時の旅行も、陽子さんが自分の給料で妹たちを連れて行くという毎年の恒例行事だった。
事故現場では3人とも、ほぼ同じ位置で見つかった。輝子さんは「みっちゃんも、じゅんちゃんも、怖くて姉ちゃんにしがみついていたんだろう」と話す。
■酒で紛らわせた日々…「3年記憶ない」
事故後、輝子さんは悲しさや寂しさを酒で紛らわせるようになった。「3年くらい記憶がない」
当時は3姉妹が帰るはずだった大阪(伊丹)空港の直近に住んでおり、毎日決まって事故機の着陸予定時刻が近づくと、2階のベランダに出ては着陸機を眺めて「あれに乗って帰ってくる」とつぶやいていた。
ウイスキーを片手に仏壇の前に座っては「電話してこい」「何してるの」と遺影に語りかける日々。街中に陽子さんと同じ髪の長い女性を見かけ、しばらく後をついて行ってしまうこともあった。
近所からは「日航から3人分も賠償金をもらえるからいいね」などと、心ない言葉もかけられた。
そんなときに遺族でつくる「8・12連絡会」の発足を知り、親吾さんが輝子さんを会合に連れて行った。親吾さんは「同じ悲しみを背負う遺族同士で話すことで、気持ちのはけ口になったと思う」と振り返る。
■姉ちゃんに「ええ加減にせんかい」
平成元年、夫婦2人暮らしには手広くなった大阪の自宅から、現在の自宅に引っ越した。
近所の人には遺族であることを隠したが、10年ほど前に報道を通じて知られると、花を持って訪ねてきたり、「よう辛抱したね」と声を掛けてきたりする人がいた。今度は優しさに触れた。
輝子さんが酒を飲む日々は続いていたが、約5年前に体調を崩し、体が酒を受け付けなくなった。輝子さんは「姉ちゃんに『ええかげんにせんかい』って叱られたのだと思う」と話す。
それでも娘たちが亡くなったことは信じられない。「姉ちゃんは『私が家を継ぐからお父さんが気に入った男の人を連れてきてくれれば一緒になるよ』と話していた。ずっと一緒に暮らせるって…」
慰霊登山は年齢的に厳しさを増し、今では親族に抱えられて登ることもある。
「私が待っててやらないと、姉ちゃんたち困るでしょ? だから待ってるよ」
それでも輝子さんは、この言葉を伝えに御巣鷹の尾根に向かう。
親吾さんも「元気なうちはというより、生きているうちは登る」と執念を見せる。30年だから特別に何かを伝えるというわけではない。「今年も2人して元気にお参りにきた」と言う。それだけで十分だ。
親吾さんは娘たちの死を受け入れているはずなのに「子供が呼んでいる」と感じている。2人の時間は今も止まったままだ。
520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故は、12日で発生から30年を迎える。時が止まったままの両親、前に向かって歩む夫…。遺族はそれぞれの今を生きるが、空の上にいる「あなた」に伝えたいことがあるのは一緒だ。その30年間の思いをつづった。
■520人死亡 史上最悪の単独航空機事故
東京(羽田)発大阪(伊丹)行きの日本航空123便ボーイング747型機は昭和60年8月12日午後6時56分、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客524人のうち520人が死亡した。現在も単独の航空機事故としては史上最悪の惨事だ。
事故機は約32分間の上下蛇行の末に墜落。運輸省航空事故調査委員会(当時)は、機体後部の圧力隔壁が破壊され、漏れ出した客室内の大量の空気が垂直尾翼や油圧系統を破壊し、操縦不能となったことが事故原因とした。その7年前に大阪空港で起きた尻もち事故で、米ボーイング社による修理が不適切だったため、圧力隔壁に金属疲労の亀裂が広がったとみられる。
60年12月、遺族でつくる「8・12連絡会」が結成された。支え合い、事故原因を究明し、空の安全を追求していくことが目的。日航に事故を語り継ぐための施設整備を働きかけ、事故後22年目に遺品や事故機の残骸などを展示した「日航安全啓発センター」がつくられた。現在は日航内でも社員の9割以上が事故後の入社となっており、風化防止が課題となっている。(福田涼太郎)
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