okinatchiの四次元徘徊記

 毎日の出来事を書き綴ります。

終戦のエンパラー

2013-08-15 21:53:45 | 日記
 8月5日の朝9時から新宿の映画館Pで上映される映画「終戦のエンペラー」を団地のシニア会の会員のうちの希望者がみにいくことになっていて、私はTo子さん他1名と一緒にバスに乗り映画館Pに出掛け、映画館Pでシニア会の他の参加者の人達と合流した。映画 終戦のエンペラー の最後に近いシーンでは涙腺が緩んで困った。映画が終わってからシニア会の人達やTo子さんと別れて、地下鉄に乗り九段坂の靖国神社に行った。

 靖国神社周辺の多くの道路の各所には、靖国神社の近くに在る国の慰霊施設で行われる予定の行事のためであろうか、大勢の警察官で交通規制を行なっていたので、九段駅から靖国神社に向かう坂道は人であふれ返っていた。科学技術館にいってそこのレストランで昼食を摂った後に、地下鉄電車とバスとを乗り継いで家に戻ってきた。 

  終戦の 映画の終わり 涙ぐみ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日の5

2013-08-15 21:39:10 | 日記
   8月15日の5
  有名なTV番組の「おしん」では、貧乏のために大根めしを食べている話がでていたが、戦中戦後の食糧不足の時期には足りない米を補うために、ご飯の中に野菜や野草、その他のものを混ぜて食事の分量を増やしていた。

 お米の配給量としては一人1日3合(1合は0.18リットル)のように決められていたのであるが、日本国で収穫される米の量は日本国民の全員に1日1合の配給を行うのには不足していたから、配給される食糧は米だけではなく、米の代わりにサツマイモであったり、高粱であったりしたこともあった。 そして、その頃は米の配給通帳(米穀通帳)が身分証明書としても使用されていたのである。

 街の食堂などで食事をするときには、区役所に提示した米穀通帳に記帳された上で発行してもらった外食券を店に提出しない限り外食ができなかった。 それで、その頃の勤め人は少数の例外の人を除いて、家から弁当をもって勤務先に出勤していたのであるが、その当時に独り者で自炊生活をしていた私は、米の配給の代わりにサツマイモがどさっと配給されたときには、毎日、弁当箱に茹でたサツマイモを詰めて勤め先に行ったものでした。

 外食券なしでも外食ができるようになったのは、昭和20年代の終わりか昭和30年代の始めころであった、と記憶している。 現在は残飯が街中に溢れていて、それで烏が大繁殖をして困っている、などという、とんでもない事態になっている。 地球上には飢えに苦しんでいる大勢の人達がいる、というのに。 今の日本には飢えに苦しんだ経験のある人は少なくなってしまっている。

 現在の日本国の食糧の生産能力は日本国民を飢えさせない量には満たないから、海外から食糧の輸入が止まるような事態が生じたら、日本国には戦争中と戦後の餓鬼の世が再現されるであろう。 海外からの食糧の輸入がとまるような事態としては、日本国に食糧を輸入するための外貨があっても、天災、地変、戦争などによって外国から食糧の輸入が出来なくなるとき、あるいは、日本国に外国から食糧を輸入するための外貨がなくなってしまったとき、などが考えられる。

日本国は私が某官庁に勤めていた数十年前には国際収支が赤字であったり黒字であったりの状態で、勤め先の官庁での毎月の省議報告における国際収支の状態が知らされる度に一喜一憂していた貧乏国だったのであり、今の日本国の状態では元の木阿弥で貧乏国に逆戻りすることがないともいえない。 私はそんな日本国の姿を見たくはないのだ。 

  配給の 思い出苦き 終戦後  徘(徊)人 okinatchi

8月15日の4

2013-08-15 07:17:28 | 日記
  8月15日 (4)

 大東亜戦争が始まってから3年目になると日本国の昼中には老人、婦女子、子供の姿だけしか見られなくなっていた。戦争のために大人達が戦場に駆り出され若者は軍隊や軍需工場に、壮年者は徴用令で土木工事や軍需工場に、また学徒動員令により14~15歳の私達中学生も労働力として駆りだされて、土方、工員などとして年中無休で働かされ、当時、国からは学徒1名に1ヶ月¥50.の給料が支払われた。

 この給料の金額のことを一般の女子工員に話したら、女子工員から自分の給料は一ヶ月に¥35.だから羨ましい、と言われたことを覚えている。学徒動員で国から支払われた給料は、学校が各人の郵便通帳に貯金しておいてくれていて、卒業証書と一緒にわたされたが、数年間の汗の結晶の貯金額の¥1500.も、インフレのために1冊の「無線工学ポケットブック」しか買えなかった。

 結局、中学校での4年間の内の後半の2年間は、力仕事や手先を働かす技の仕事、等々、で費やされてしまったのだが、その間、親元を遠く離れた土地での同級生との合宿生活(軍隊組織の形態)などを通じて、この世にいる内に地獄の状態を経験することができた、など平和な時代では得ることができない様々なことを経験できたことは良かったんだなアと回顧している。

 戦争末期になってラジオからは「海ゆかば」の音楽に続いて特攻隊の兵士の戦死のニュースが流れることも珍しくなくなり、また、学校での軍事教練では蛸壷の中に爆弾を抱いて身を潜めて、敵の戦車が蛸壺の真上を通過したときに爆弾を爆発させて死ぬ、という訓練が行われるようになった。 東北の秋の空はどこまでも青く、町中は静かであった。 その青空を眺めながら、15歳の私は何時訪れるかも知れない死を思い、死にたくない、と考えていたのだった。今、83歳になって、毎朝の新聞の死亡者の記事を読んで思う感慨とは全然違っていた思いを抱いていたことを思い出した。

 戦争が終わって学徒動員から開放されて中学校に戻って授業が始まっても、食べ物もない状態なので、体育の授業のときには、教師が授業の始めに、空腹では体操もできないだろうし、水腹も一時というから腹一杯に水を飲んで来い、というような有様であった。

 とにかく、国敗れて山河在り、の状態で、街には米兵相手の売春婦が集い、国中に飢えている多くの人間の他にはなにもなく、たとえば電力不足のために、毎日、計画停電が実施されていたなど、どう考えても明るい未来があるなどとは思えないオキュパイド ジャパンだったのであり、あの当時には今の飽食の状態などは想像もできなかったことである。

 そして、戦後のインフレーションの物凄さは、あの当時に物心がついていなかった人には実感としてわからないであろう。 昭和20年(1945年)の8月半ばまで続いた戦争が終わりをつげ、国敗れて山河あり、という語句の意味が身に沁みるように納得できた当時は、食糧もなく、電力もなく、毎夜、きまって停電が生じていた。

 停電になっても物資不足の当時には照明用の懐中電灯はおろか、蝋燭もなく、私の生家では鮫の肝臓を煮て得られる油を入れた容器中の油に灯心を立てて構成した灯具を用いて停電時の明かりとしていた。
 
食糧不足のために、米に大根、ジャガイモ、甘藷、野菜などを混ぜて量を増やした状態としたご飯の少量を、未来への希望もない暗い不安な気持ちで、停電のために暗い状態の室内で食べた経験を有する人も、少なくなってきている。

 敗戦後の占領下の日本国は、戦争が終わるまでは日本人であったが戦争の終了により外国人になってしまった人達の内の一部の人達が日本国の法律を無視して暴れまわるのをどうすることもできず、使い物になりそうな工業設備は賠償のために国外に持ち出されてしまい、残されたのは腹をすかし、インフレーションに苦しめられている1億の人間だけ、という、将来への夢も希望もない情けない情況であったのだ。

 朝鮮半島で戦争が起こり、北から攻めてきた軍隊が米軍を朝鮮半島から駆逐する直前の状態にまで追い詰めた頃には、九州にも空襲が行われるのでは?などと、いう話が流れたり、北海道にソ連軍が攻めてくるのでは?などと、本気に心配したものだった。 そのころ、私は某官庁の寮に兄と一緒に住んでいたが、夜になると若い官僚が集まって日本の将来について熱っぽく語り合っていたものだった。 

  国破れ 飢えた国民 世に溢れ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日の3

2013-08-15 07:06:50 | 日記
  8月15日 (3)
  日本国はもともと資源が乏しい国であったから、昔から物を大切にする習慣が根付いており、江戸時代からリサイクルシステムも構築されていたが、特に、戦時中のように釘一本にいたるまで、手にいれることが困難な時期には、ゴミとして捨てられるものは皆無であったために、戦時中の街中はゴミのない綺麗な状態であったし、街の中を流れる川の水も目を疑うように透明な状態になったことを知り驚愕したことを記憶している。

 また、燃やすものも乏しかったから日本国の空は、どこまでも澄みきったきれいな青空であった。つまり、戦時中の日本国は山紫水明の地であった。 その頃の日本国の平均寿命は50歳にも達してはいなかったが16歳から40歳くらいまでの男子は、死にそうな病人以外は徴兵令や徴用令によって連れ去られていて、戦前には相手にされていなかった知能の遅れている人も動員されていて失業率がゼロの状態であり、街には女子供と老人だけが残されていたのである。

 街中にあった銅像、塀の金属板、寺の梵鐘などは勿論のこと、家庭内にある不使用の金属製品等々、などがすべて戦争遂行のための重要物資として供出させられたのである。 このような状態で戦った末に負けてしまった国の悲惨な状態は、その当時に判断力を持って生きていた人以外には判らないであろう。 そして、昭和20年(1945年)8月15日に戦争が終わったときには、日本国内には飢えた1億の人間だけが居たような状態になっていた。
  
 私は戦時中の旧制中学校三年生の時に、現在の山形空港として使用されている海軍航空基地を建設する作業に、所謂、土方として学徒動員されたこともあったが、15歳の私達が作業に従事した海軍航空基地は軍の施設であるのに、その頃の日本国には軍用飛行場の滑走路の舗装材も調達できないという哀れな状態になっていて、滑走路の舗装材としては、徴用令で集められた大勢の桶屋さん達が、桶のタガに使用するような割り竹を網状に編んだ状態のものを滑走路上に敷き詰めて滑走路の舗装にしようとしていたのである。

 戦時下の日本で なによりも優先されていた軍の施設においても、上記のような哀れな状態であったのだから、一般家庭における困窮の程度は推して知るべしである。 国力を使い果たして戦争に負けた後の我が国の状態の哀れさは、昭和ニ桁生まれの人には実感としては判らないのではないかと思われる。

 私は中学3年生と4年生のときに同級生とともに学徒動員令によって派遣されたT市の飛行機工場(防牒のために「東北神第1xxxx工場」などと呼称されていた)で、旧日本海軍の夜間爆撃機「銀河」のトラップの左肋材組立作業を行なっていた。

 その時期に覚えた電気ドリル、エアーハンマーなどを使用しての色々な工法、金属加工技術のノウハウなどは、その後に大いに役だっている。 最近、何かの本で読んだのだが、旧日本海軍の夜間爆撃機 銀河 は終戦時までに百数十機生産された、とあったが、終戦直前の時期に双発の爆撃機が実戦に役立ったのかナ?と思った。 この旧日本海軍の夜間爆撃機 銀河は、記号の付けかたからみて横須賀海軍工廠が設計したものと考えられるが中々に良い飛行機だったそうである。

 夜の大空に横たわる銀河、満天の星。 子供の頃にみた夜空の様子である。東北地方の日本海側で古くから稲作地帯として有名な庄内平野にある旧城下町(小説家 藤沢周平の小説中にでてくる海坂藩の城下町)であるT市が私の生まれ育ったところであるが、子供の頃のT市には街灯も殆ど無かったので夜は満天の星明かりで夜道を歩いていた。

 戦争が激しくなって敵機が来襲するようになると、敵機からの攻撃目標にならないようにするための灯火管制が行なわれて夜の町は暗かった。 このように私が故郷で暮らしていた頃は、夜ともなれば外は月明かり、星明かりの世界となっていたのである。

 小学校のころ星空の勉強のために小学校の校庭で空を眺めて、北の空に北極星や北斗七星を先生から教えられたときのこと、戦時中に夜中の空襲警報の発令とともに飛び起き、素早く身支度をしてゲートル(巻脚胖)を巻き、星明りの下の暗い道を学校まで走っていって、学校に着いたときに見上げてみた綺麗な星空の状態などは今でも鮮明に目蓋に浮かぶ。

 現在の私は東京のど真ん中に住んでいるので星影を探すのにも苦労している状態なのだ。 夜、地上60米の窓越しに、地上の銀河のように広がる東京の街の灯の海を眺めていると、貧乏性のせいか凄い電力消費量だろうなあ、などと思ってしまうのである。 今でもT市では夜空に銀河が横たわって見えているのだろうか? などと、大日本帝国海軍の夜間爆撃機 銀河 と関連して天空の銀河のことを思い出していた。

  子供でも 学徒動員 飛機作り  徘(徊)人 okinatchi

8月15日の2

2013-08-15 06:53:47 | 日記
  8月15日 (2)

  私の故郷のY県T市は満州事変の計画立案者とされている石原莞爾氏が生まれ育った地であり、この石原莞爾氏は陸軍幼年学校に進学するまで、私が通学していたY県立T中学校に在学していたのである。前記の石原莞爾氏は東条英機氏から斥けられて退役軍人にされ、この時期には生まれ故郷のY県T市に住んでいて東亜連盟という団体を主宰しており、石原莞爾氏は戦争終結時には私の住居と同じT町内に住んでいた。

 私が住んでいたT市T町の町内会長Sさんは、日本国の敗戦という重大事の勃発に際し、同じT町内に住んでいた石原莞爾氏に「日本の敗戦に伴って日本国民はどのように対処すべきか?」などについての講演を依頼したところ、しぶしぶ承諾してくれたというので、8月16日の夜にT町内のR寺の本堂で講演会を開くことになったという回覧板をT町内に廻した。

私と兄とは石原莞爾氏の講演を聞きにR寺の本堂に行った。その夜の石原莞爾氏の講演は主として東条英機氏を攻撃する内容のものであったが、また石原莞爾氏は持論が世界最終戦論なので、当然のことながらアメリカとの最終戦争のことも話にでていたし、さらには戦争に負けた国の国民は戦勝国からどんなに酷い仕打ちを受けても耐え忍ばなければならない、という話もあり、聞いている内に段々と不安になり暗い気持ちになって重い気持ちで家路についたのであった。

 その後の日本国は、アメリカ軍の占領下でアメリカ製の新憲法を押しつけられたのを始めとして、アメリカの気の長い半世紀にわたる日本の弱体化政策の成果として古き良き日本は姿を消し、現在の日本国へと変わってしまったのである。

 今から83年前、私が生まれた頃は昭和大不況の真っ只中で、後年「大学は出たけれど」と表現されている時期であった。 満州事変が終わり満州帝国が建国されて、日本各地から満州への移住が盛んに行われはじめた頃から、景気が上昇に転じて失業者も減りはじめたらしく、私が4歳になった頃には大人達の会話の内容が不景気の話から、満州への移住者が匪賊に襲われた話とか、物価が高くなって困ったなどの話に変わっていたように記憶している。

 ところで、昭和12年(1937年)7月7日の夜に蘆橋溝の銃声で始まった戦争が長引いて行くのにつれて、町の中からは次第に若者の姿が消えて行くとともに、商店に並んでいる商品の種類や数量が減っていき、物価上昇が激しくなり、大人達の会話も物価高についての事柄が多くなっていた。

 戦争が長引くにつれて物資不足が深刻になり経済体制が統制経済に変わり、お金があっても配給通帳や配給切符などがなければ物を買うことができないことになり、配給通帳や配給切符無しで売買される物資、所謂、闇物資は、売買行為が犯罪とされて刑事罰が科せられるようになった。

 また隣組制度の実施により数軒の家毎を単位にして隣組が結成されて、隣組単位で消防訓練が行なわれたり、毎月、隣組毎に割当てられる国債の消化を隣組の共同責任とされたり、隣組組織がお互いの家の監視のために用いられたり、配給物資の分配態様が隣組組織内の相談によって決定して実施されるようにするためなどに用いられた。

 国策に反する言動をする人は非国民として密告されて特別高等警察や憲兵隊に連行される、というので、多くの国民は貝のように口を閉じていなければならなかった。この時期を生きてきた人は戦後の自由な時代が到来した後でも、直ぐには自分の意見を言う事をためらっていたと思われる。大東亜戦争が始まった日の昭和16年12月8日の朝に、私の母親は「アメリカやイギリスと戦争をしたら、負けてしまう」と呟きながら、暗い顔をしていた。小学6年生の私は、母親に「そんなことをしゃべると警察に連れていかれるから、他の人に聞かれなように」と、きつく言ったことを覚えている。

 その頃の大日本帝国の状態は、どこに特別高等警察のスパイが聞いているのか判らない、ということを幼い小学生でも常識として知っていて、壁に耳あり、と、話の内容に気をつけて話さなければならなかったのである。そのような雰囲気の中で、ハワイの米国太平洋艦隊を撃滅させるという大戦果を挙げた大日本帝国の開戦日に、母親が、日本は英米には勝てない、などと、言うものだから、孝行息子は吃驚仰天したのである。このような経験のある私は現在の北朝鮮の人達も、戦時中の日本のような状態で暮らしているのであろう、と気の毒に思っているのである。

  特高の 影におびえて 口つぐみ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2013-08-15 06:27:22 | 日記
  8月15日(1)
 曇り、晴れ。 午前6時の屋外気温は29℃だった。起床後に直ぐ、住居前を歩きながら、昭和20年8月14日から8月15日にかけて大日本帝国陸軍東部軍管区の若手将校達が大東亜戦争の終結に反対するためのクーデタを計画して実行に移したが失敗したこと、この事件の陰で近衛師団長がクーデター側の将校によって射殺されたこと、昭和天皇の終戦の詔勅を録音した録音盤がクーデター側に奪取されなかったことの真相、終戦時に複数の陸軍の高官が自決したことなどや、68年前の8月14日~8月15日に東部軍管区の一部将校によるクーデタ騒ぎが鎮圧されなかったならば、今の日本は無かったかも知れない、などのことを回想した。

 昭和20年8月15日のことは68年後の今でも鮮明に思いだされる。昭和20年8月15日、東北地方のY県立T中学校の4年生(最上級生)であった15歳の私は、その日も前日までと同じく朝の8時前に学徒動員先の飛行機製作工場の守衛所のタイムカードを押してから作業場のある建物に向かった。

 その日の正午に天皇陛下が重大放送を行うから全国民が聞くように、という予告が繰り返して行われていたから、職場の朝礼前に作業場に集まっていた大人の工員達や学徒動員の同級生達は、前代未聞の天皇陛下の放送内容がどのようなものか、という点について、各人が憶測した内容を盛んに喋りあっていた。 多数の人達の憶測発言の内容の略々100%は、本土決戦に向かって国民が決意を新たにして云々…、というものであった。

 ところで、その日の数ヶ月前頃から私達が学徒動員で働いていた工場に対する原材料や部品などの供給が途絶する事態が多くなっていて、原材料や部品がないために手待ちの状態が多くなっていたので、このような状態では戦争を続けることは到底無理なのでは? と、誰もが心の中で呟いていたことと思う。

 しかしながら、あの当時に、そのようなことを口の端にのせるだけで、即、特別高等警察(特高)や憲兵に連れていかれる、というような雰囲気だったので誰も本音を話せなかったのだ。 正午近くになって工場中のすべての人間が工場の建物の間の空き地に集まり、きちんと整列して天皇陛下の放送を待っていた。

 その日の空はからりと晴れていて、澄みきっていた青空の中に真夏の明るい太陽が輝いていた。正午になって天皇陛下の重大放送が始まった。 スピーカーから流れでたアナウンサーのアナウンスに続いて天皇による終戦の詔勅の声が流れ始めたが、その声は大きな雑音でマスキングされていて良くは聞えなかった。

 途切れ途切れに聞える単語をつなぎ合わせても、何を言っているのかが良く判らなかったが、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んで云々、」という言葉を聞いて、アッ!これは戦争を止める、ということらしい、と思い当たった。

 重大放送なるものが終わっても、誰も、その内容をはっきりと聞いたわけではないので、どうも、戦争を止めるらしい、と小声で話し合っていた。 重大放送時の雑音は重大放送を国民に聞かせまいとして日本軍が放射した雑音電波であったとの事実が後で判明した。

 その後のラジオニュースによって、大日本帝国がポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏をしたことが明らかになり、私達は、とりあえず直ぐに隊列を組み学校に向かい町中を行進して中学校に帰校した。

 私達の中学校は東京の大手の電線会社の疎開先に指定されていたので、久しぶりにみた学校は運動場に多数の捲線機や材料などが所狭しと置かれていたり、工場にするために雨天体操場の床も取り除かれて地面が露出した状態になっていた。

 学校では学徒動員が解除されたので、とにかく明日から学業に復帰させることにする、との話を聞き、解散して帰宅した。 学校から家までの帰り道で、あ~、これで当分は死ななくても良くなった、と、心にわだかまっていたシコリが消えて行くのを感じていた。

 学校から家に戻ったら、とにかく戦争が終わった、ということで、祖母が近来になく和やかで明るい顔つきをしていた。戦争が終わったという実感は、その日の夕方から灯火管制が行われなくなったことにより、どの家からも明かりが外に漏れている情景を見たときに強く感じた。

 その頃の日本国民は「我が国は、古来、他国に負けたことがなく今度の戦争にも最後には必ず勝つ」というように教え込まれていたので、誰一人として戦争に負けるとどうなるか? などとということは判らなかったので誰も為すすべも知らず、したがって町は平穏を保っていた。

  終戦の 日の出来事を 思い出し  徘(徊)人 okinatchi