『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

それでも私は所属している

2018年05月23日 | 昼行燈より愛をこめて
いつもの仲間が一緒にいる。
その喜びと安心のある組織から離れて、
しばらく経って思うこと。

「所属感って大事なんだな〜」

何やねん、それ。
知ってたわ(^^)!

ならば、
そのまま組織に所属していたら良かったかというと、
私の場合、そうでもなくて。
だんだん、頭とカラダが分離して、
自分の言葉が力を失っていきました。

「ワークライフバランスの充実」、
などという、イマドキな問題意識では包めない
仕事上の自分と、仕事を離れた自分。

私はそれを一致させたかった。
自分は両方を知り、しかも取り込まれないで、
独立して両方をわかりたかった。

でも、片方の「ホントウ」が魅力的すぎて、
どうにも折り合いがつかなくなり、
このままでは、頭と心とカラダが、
バラバラ死体になりそうで。

…「自由の哲学」って本に出会った時に、
予感はあったんだけどね。

割り切ることもできるんだけど、
どうも、そこは
割り切りたくないので仕方ない。
気にするように生まれてきたようなので、
めんどくさいけど、引き受けよう、と。

で、組織から離れてみた私が、
今、細い糸のように嬉しく感じるのは、
「それでも自分は所属している」という実感。

給料をくれる組織はなくても、
毎日顔を合わせて笑いあえる仲間はなくても、
もっと大きなものの一員であり、
もっと小さなものの一員である、ということは、
ちょっとした安心感につながっています。

小さく言えば、家族や友人、
大きく言えば、世界や宇宙や、歴史。

そのつながりを、
細い糸みたいに感じるだけじゃなくて、
切っても切れない縁、イヤでも含まれる私、
みたいに感じられたら、
それだけ、安心感も大きくなっていくんだろうな。

私だけじゃなくて、誰でも、ね。
誰でもみんな、世界の一員で、
歴史の先端で生きていて、
人間社会の一員であるだけじゃなくて、
大地や草木、動物などを合わせた
地球全体、宇宙全体の一員であり。

何かを見たり感じたりすると、それに呼応して、
自分の中にも何かの「感じ」が生まれる。
それを、静かに取り出して言葉にしてみる時、
自分の中と外がつながる。

たとえば、庭の青虫が、
レタスをかじっているのを見る時。
「やめてー、レタス穴だらけ!」と思うと同時に
「こんなに無心で食べててすごいな」と
生命力と美しさを感じつつ見とれる。

んで、自分を省みて
「私、こんなに必死で生きてないな」とか、
「青虫は、生きるのに必要なだけ奪うけど、
人間は、果てしなく不安がって溜め込む」とか、
青虫と自分と世界をつなげてみた時、
青虫は私につかわされたメッセージになる。

けど、時々、捕殺する…(T_T)。
レタスも青虫も、さらに愛おしくなる。
青虫からレタスを奪って生きる自分に、
青虫の命の分の責任の重みが増す。

何か気になるものがある時に、
ちょっと立ち止まる。
気になるってのは、
つながるきっかけのセンサーだからね。

自動販売機でお茶を買って飲んでいる時。
「マイボトル持ってくれば良かった」という
若干の後ろめたさ感じる時がある。
普段は気にもしないのに。

お茶を飲みつつ、
「軽くてフタできてリサイクルできる容器、
これホント便利だよな〜」と開発者に感謝したり
「昔は竹筒に沢で汲んだ水を入れて持ち運んでたのに、
今じゃ、販売機で冷やして、だもんな。
日本中の販売機で、どのくらい電気使ってるんだろ?」
と思いを馳せたりしつつ、
「んで、自分は何を生むのか、どうするのか」と思えば、
ペットボトルも、私につかわされたメッセージになる。

気になる何かを、じっくり見れば見るほど、
自分と世界との間に、つながりが太くなっていく。
そのつながりを感じると、
自分が大きなものにつながっていると実感し、
前より少し安心が増える。

押し寄せる刺激や義務などから、
自分の感覚を離している時にこそ生じる、
果てしなく大きな存在の一員であるという感覚。
むなしさとはほど遠い、感謝で満たされた、
静かで繊細な、豊かな豊かな感覚。

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