普段から結構きわどいことを言い合う相手と、
いつものように、私も相手もしゃべって、
自分の失敗を客観的に捉えつつ消化しながら
まな板に乗せてしゃべってた。
それが、その日に限って、
相手は自分の話を
思ったように私が受けらないことに
傷ついたらしい。
ちょっとビックリして、
「今はケアが必要やったのに、
対話したから嫌やったんかな?」
という主旨のことを話したら、
「友達の間でいかなる時もケアなんか必要ない」
って怒る。
誠に、ややこしい。
今、あの子は私に何を求めてるんだ??
「ケア」ってアナタを上から見てるんじゃないよ?
2人の間での「ケア」の言葉の定義が違うんじゃない?
と、私なりの捉え方の違いを話す。
「あなたそのままの存在」を外敵から守るのがケア、
「前を向いて歩く」を内側から応援するのがセラピー、
「自由で対等に話す」のが対話。
上からじゃないんか、ということがご理解いただけたら、
「そうか、大変やったな、って言って欲しかった」
と教えてくれる。
「そうか、大変やったな」。
こんなに大きな傷やってんで、って
伝えたかったんやな。
痛みが伝わってくる。
その出来事の大変さを改めて聞いて、
こっちも響いて痛い。相手にムカつく。
「ケアなんか求めてない」って言いながら、
明らかに受け止めて欲しがっている友人の、
その出来事のしんどさを思う。
今まで私たちの関係では、
言葉にすることが、そのまま包帯になって、
自然治癒力で乗り切れてきたけど、
外科手術や投薬が必要なレベルだったらしい。
気持ちがやられてる時って、
まずはそこをそっと受け止めて、
やさしく暖かく保護することが絶対に必要。
「ただ、受け止める」には、
そういう力がどのくらいあるのかな。
聞いてもらわないと収まらないことも、
聞けずに相手を傷つけたことも、
この1か月に両方あって、
その気持ちをビビッドに味わった。
強がらずにSOSを出してくれてよかった。
傾聴を学び出して1か月半。
聞き方を学べって言わんばかりの、
この両方の出来事。
聞き方ひとつで人が傷つくのだと知った時、
正しさなんかどーでも良くなる。
正しさよりも大事なことを、大事にしたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます