『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

それでいいんじゃない?(投げやりではなく)

2022年10月11日 | 考える日々
決まった時間に意味のないことをする
(たとえば、ちょっと頭を触るなどでOK)という、
シュタイナーの「6つの行」の意志の訓練。
とても小さなことなのに、
何度挑戦しても数日しか出来ない。

だけど、何になるかわかんなくても、
朝のノート習慣は始めてから毎日、
フォルメンも何百枚も、
ブログに至っては何年も、毎日続けられている。

「向き不向き」ってのがあるのかな。
ホントに、なんだろな~、
この「向き不向き」っての。

何度声に出して読んでも
3分間のお話さえ覚えられないのに、
ピアノなら10分15分の曲でも覚えられる。

自分なりの工夫は出来るけど、
言われた通りは出来ない。
白紙には書けるけど、
フォーマットは埋められない。

思いを言葉にできるけど、
人に伝えるのはヘタクソ。
人に伝えるのはヘタクソだけど、
勉強会とかの場は、作りたくなる。

なんつーか、
デコボコすぎて、バランスが悪い。
悪いから、ボコのところを埋めようと、
そういう仕事をしてみたら、見事にはまらない。

だけど、誰でもそれなりの役割があるし、
この人生をどう生きようかとデザインしてから
生まれてきたんだ、と仮定したらね。
誰でも、何かの役割があるはずなのよ。

それは、たぶん、
仕事という役割で与えられることが多いと思うけど、
そういうのに出会ってない人は、
炭鉱のカナリア的な役割がある。

今の社会が生きにくい人は、
今の社会の問題に気づきやすい特徴を生かす。
「私が生きやすい社会はこういうの」って、
いい意味で開き直って伝えたり、
手の届く範囲を変えたらいい。

生きにくい=次の社会を描く役割の人が、
今の社会に順応しようとして
無理しすぎて病んじゃったりしたら、
めちゃくちゃもったいない。

今生きにくい人が次の社会を描かなくて、
誰が描いてくれるんだ、っつーの。
堂々と、「あたし、こーゆーとこ生きにくいわ~」
って言ってたらいいはず。

昔、障がい者だってそうやって声をあげて、
冷たい目で見られながらも、
駅にエレベーターを付ける原動力になってくれた。
そのおかげで、子連れでも老人でも、
外出しやすくなったもの。

かく言う私は、かなりデコボコで、
「もっといい社会」の可能性を探して、
夢みたいなことばっかり言ってるから、
まぁ、社会への順応性は低いんだろうな~。
地に足が着いてんだか着いてないんだか状態。

ま、出来ることがあるなら、それを生かせばいいし、
出来ないことに挑戦して、自分を磨いてもいいし、
出来ることがゼロってこともないだろうから、
出来ることを生かしながら自分と社会を育てていってもいいし、

あ、なんかそれがいい気がする。

「んで、どーしたいの?」と自分に聞かれたら、
「今考えてるのでいいんじゃない?(投げやりではなく)」
と、言ってあげたいな。

単品の私が言ってるんじゃなくて、
「ご先祖様」とか「守護霊」とか「守護天使」
的な役割の存在とデュオで言ってる気がするから。

そういう、自分の望みに向けて、
一緒に走ってくれる高い存在って、
「渡っていいよ~」って安全に通してくれる、
通学路の旗当番のおばちゃんみたいだな。

「いつも見守りありがとうございます!」
って感謝しておかないと(^^)。


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