またまた大変なことになっています。
この対応は、基本的にはマスクして手洗い、ですが、
ふさわしいと考えるレベルは、
人それぞれに感覚が違います。
マスクを着けてたら安心できる人、
ひと気のない場所のジョギングでもマスクを着けてる人、
ワクチンを早く打ちたい人、なるべく打ちたくない人、
家族以外とは飲食しないと決めてる人、
あれこれ気にするあまりメンタルが疲れてしまう人、
危険な中でも働いてくださるコアワーカーの人…。
どれが正解なのか、誰にもわかりません。
政府家だって、専門家だって、
どの視点で見るのか、どこを重視するのか、
どのバランスを目標にするのかによって、
正解が変わってきます。
国民一斉に何かをしようとしても、
私たちは、住んでいるエリアも仕事も家族も
年齢も既往症も所属するコミュニティも…、
生きる現場がそれぞれ違うので、
正解もそれぞれ異なるのが現状です。
コロナに対する感覚や対応方法が違うことで、
仲良しの人と気まずくなったり、
家族と会えなくて寂しかったり、
全員、何らかの今までとの違いを抱えています。
私たちが今、学んでいることは、
いろんな人の意見に耳を傾けながらも、
最終的には、
自分なりの答えを自分で出す必要があること。
自由に向かう練習を強制されているのかもしれません。
また、
自分と隣の人の答えが違う居心地の悪さの中で、
互いに尊重し合いながら、
互いの考えに砥石をかけて妥協点を探す実践の場、
としても、なかなかスパルタな現場です。
用事で人に会うにしても、
その時間を安心して過ごす事と、
その人と楽しく過ごす事との兼ね合い。
自分は、そして相手は、
お茶くらいならいいと考えるのか、
会うこと自体がダメだと考えるのか、
気にしたいレベルが違う場合、
どこでどう折り合いをつければいいのか、とかね。
答えは、毎回違う。
周りとも一緒に良くならないと、
自分のコミュニティや国だけが良くても何の意味もない、
というような、エゴを捨てる必要性にも迫られます。
物理的に会うことで満たされることと、
精神的に会うことで満たされることは違う、
ということや、
人がいてくれる時と、1人でいる時の
自分の行動の違い、なんかも思い知らされたりして。
あんまり意識してなかったことを
いろいろ強制的に練習することになっている今日この頃です。
みなさま、どうぞご安全に。
って、製造業っぽいな。
考えずに済めばストレスは溜まらないでしょう。
大まかに言えば、結婚する、子供を儲けるという特定な生活様式に自分を固定することで得られる安心感は、時として人をいきいきとさせることもあるわけです。
選ばれた不自由さによって余計なことを考えずにいられるのはストレスの軽減に他ならず、別の不自由さを選択する余地としての自由が得られるという事です。