![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/df/128b9bf493f867fbf0901804dc49b785.jpg)
今、私はたまたま
自分で移動できる身体で生きている。
一方、たまたま
自力で移動できない人もいる。
そういう人の介護に入っている時は、
身体の機能として出来ないことを、
サポートしに行ってるんだから、
そこに「ありがとう」は要らない。
って当然のように思ってたら、別の人が
「ありがとうって言ってくれないから、
もう介護には入らない」って言うからビックリした。
「え? ありがとうって言われたかったの?」って。
動けないのは自分の責任でもないのに、
誰かにサポートを受ける度に、
一生「ありがとう」って言い続けないといけないの?
与えるのって絶対的に気持ちいいし、
軽く優越感も味わえるけど、
与えてもらうのって、助かるけど、
劣等感を味わうことにもなるじゃん。
「みんなが自分らしく生きられる社会」
のために、誰かに何かの機能が必要なら、
その機能は、受け取る権利があると思うねんな~。
その「自分らしく生きていい権利」みたいなのが、
「ありがとう」っていう言葉によって、
台無しになる気がする。
優劣というか、上下というか
…の関係がつくみたいで、結構モヤモヤする…。
っていう問いが、
私の中にこの30年間、ず~っとありまして。
みんなが自分らしく生きられる社会、
みたいなものを自分も望んでるから、
その具体的な行為として介護に行く。
それを一緒に実現させていこうとしてる時は、
「ありがとう」は要らない。
そっか~。そうやな~。
長年のもやもやに、
わりと近い言葉が与えられた気がする♪
あ、だから、昔、
たとえば、介護に入って、
対象者のお出かけから一緒に帰ってきた時、
「あ~疲れた。足揉んで~」って頼まれたりしたら、
「なんでやねん。こっちが揉んで欲しいわ!」
って、若気の至りで、感じ悪~く答えたりしてたもの。
言葉にはできてなかったけど、
たぶん、わかってたんだろうな、
その境界線。
あれ? でも、
「みんなが自分らしく生きられる社会」を
多くの人が望んでいるだろうけど、
その望みの切実さは、
一生、その不便と共に生きる当事者と私とは、
天と地ほども違う。
え、もしかして、
一緒に戦っているという「気分の良さ」が、
「ありがとう」を拒否してたのかな?
うわ〜、
そんな要素が混ざってるなんて、
全然気づかなかったよー‼️
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます