迫りくる勉強会に向けて、
シュタイナーの『神智学(テオゾフィ)』の中から
「認識の小道」を真面目に読んでいる。
鈴木訳でたった5段落(=高橋訳で22段落)分を読む予定。
「段落ごとにタイトルつけるの、宿題にしましょう。
何が書いてあったか自分の言葉で言うことから始めまーす」と、
自分の首を絞めまくり(^^)。
基本的に、たぐい稀なナマケモノなので、
自分を追い込むために人を巻き込んで、
一緒にハードルを飛ぼうとする、
この迷惑なファシリテーター(と言うらしい、進める人のこと)。
でも、もう、深くて広くて、たまらない!
この小さな文章、
前に読んだ時はこんなにおもしろかったっけ?
って、改めてワクワクしています。
こないだタイトルの「認識の小道」で「おおおおっ」と思って、
小一時間あれこれ考えてしまったけど、
今日は最初の「いかなる人も」に
「おおおおおっ」となって進まない。
えーと、
まだ6文字しか読んでないのに(^^)。
「いかなる人も」霊的な能力を育てられます、ってことは、
素質のある人はもちろん、スゴイ修行する人も、ふつーの私も、
練習したら霊的なものが見えるようになる、らしい。
「誰でも」ってのは、ぜひ熱く語っておきたいところ。
てか、根本的な問題で、
みんな霊的(=超感覚的)なものって見えるようになりたいの?
私は別にオーラとかゆーれいとか見たくないよね。
そんな問いが素朴に浮かぶ。
松浦訳の帯に、答えが出てきた。
超感覚的(霊的)なものの認識をとおして、
初めて感覚的な「現実」に意味が与えられます。
(略)
人生を理解することによって、
私たちは本当の意味で
「実際的な」人間になるのです。
なるほどなぁ~、リアリティあるなぁ。
なんで私はこの時代にこの場所で、
この性格で、この能力で、
あの両親のもとに、この夫と、この家族を作るべく、
ここに生まれてきたのか。
精神的・霊的なことがわかる(認識できる)と、
ナゾに満ちたこの人生に、
意味が与えられるかもしれない。
誰でもふと…そう。
ピンチの時とか疲れた時とかに、
「なんでこんなしんどい目にあうんだろ」
「これが何になるの?」
って、意味が知りたくなる時があるよね。
別にピンチの時じゃなくても、
自分の存在の意味を知りたいと思うのは自然なこと。
「なんのために生きてるんだろ」みたいな。
青春時代に特に際立つけど、
日常に向かう中で、いつか後退して行った問い。
いや、「なんのために生きてるか」なんか、
自分で決めたらいいだけなんだけどさ。
決めるに際して、無駄な努力をしてないかどうか、
高い存在がいるなら聞いてみたいじゃん。
「これって正解ですかね?」って。
自分で探すのをナマケるぞ、って言ってる限り、
確信できないのはわかってるんだけどね。
やっぱりそれは気になる、っていう心の声もあって。
自然法則(適切な温度の場所で種に光と水を与えたら発芽します)みたいに
霊界の法則(こーやったら精神的に成長していけます)が学べて、
自分の存在の意味が意識できたら、すごいなぁ。
気晴らしとか、全然必要なくなくなる気がする。
そしたら旅行やグルメやエステじゃなくて、
教育産業に大人が殺到するかも。
それはそれでおもしろい!
ああ、今日も全然前に進まなかった。
まぁ、進むだけがイイコトでもないよね。
いいやいいや。たぶん、こういう役回りなんだよ。
…と、この性格と特徴を肯定してみる(^^)。
「神智学(テオゾフィ)」。
3人の訳をそろえて、訳語の違いとかも味わいつつ、
人生の謎を解くために、生きる謎に向かうために、
ゆっくり読んでいきたいと思います。
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