左から鈴木一博さん訳、10年ほど前に読んでた時のノート、松浦賢さん訳、高橋巌さん訳の「神智学」
はーい、タイトル見て引いた方、妖しくないですよ~。
「神智学」読んでるので、
その中に出て来ることを考えてるんですよ~。
昨日、おとといで6文字しか進まなかったけど、
今日は3行目まで進んだわ(^^)。
見霊能力を獲得するための第一歩は、
このような(高次の世界の)思考像を把握することにあるのだ。
(『神智学』 認識の小道 高橋巌 訳)
「見霊能力」って言われてもなぁ。
という印象が否めなかったこの言葉。
いくらシュタイナーとか、神智学とか勉強してる人も、
オーラやゆーれいが見えることを目的にして学ぶ人はいない。
と思う、たぶん。
そんなの、体質で最初から見える人には見える(らしい)し、
見えたところで、私にとっては「だから何??」という世界。
精神界とか、人類の進化、宇宙の法則とか、
一般ピープルの私は、そういうのを見たいって、あんまり思わない。
むしろ、見えたらコワイやろうなぁ~、見えなくて助かってる、
というのが、今の私の正直なところ。
あっちの世界を見たいんじゃなくて、
自分が精神的に成長していくために、
これを読みたいと思ったのよ。
今日、神戸シュタイナーハウスの大人の勉強会で、
「見霊」の「霊」、「霊学」の「霊」って何だ???
という話になった。
同じことが気になって、
あれこれ他の人がどう言ってるのかを調べてくださった方がいた。
その時に紹介してもらって、みんなが納得したのは、
「私が霊なのだ」という入間カイさんの言葉。
うわ~、うまい表現~!!
変化する私(=肉体)の中に、
不変の私(=霊)がいる、
その私を見るためのトレーニング。
それが「見霊能力を獲得する」こと。
うん、しっくりくる。
カラダやココロは
年月や出来事によって、どんどん変化するけど、
この人生に起こったあれこれの結果は、
普遍的な「私」に回収されて「私」を作る糧になる。
不変は普遍だものね。
赤ん坊の時にも「私」は「私」だったし、
死ぬ時も「私」は「私」。
誰かに見せてる私や、期待に応えてる私じゃなくて、
それらもまるごと含んだ、この私。
自分がまだ知らない部分も含んだ私。
最後に、この部分、
3人がどう訳されてるか並べてみます。
元の文が同じとは思えないほど違ってビックリ。
翻訳のご苦労が垣間見えます。
ありがとうございます。
高橋巌さん訳
見霊能力を獲得するための第一歩は、
このような(高次の世界の)思考像を把握することにあるのだ。
鈴木一博さん訳(言葉遣いが難しいけど、詳しい注釈が、深く理解するヒントになる)
なんらかひとつの重なりにおいて、
(ひとつの高い世の考えの相を)自らで観ることへの第一歩である。
※注釈 ひとつの重なりにおいて=ひとりなりの小さなわたしとの重なりにおいてです。
ひとつの=かずかずをつつみこむ ひとつであり、ひとつのわたしです
松浦賢さん訳(普段使いの日本語に一番近いから読みやすい)
(高次の世界の思考イメージを人間に伝えることは)
ある意味において、人間が自分自身で直感するための第一歩です。
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