なんと四半世紀ぶりくらいに、
学生時代の友人と会った。
昔から、ちっちゃくて素直で繊細で、
周りの人にかわいがられて、
でも、自分ではいろいろ決められなくて、
嫌だと言えなくて、結果、翻弄されちゃうタイプ。
久しぶりの再会を作ってくれた友人によると、
今でも、メールの返事はソッコーで来る。
用事が済んでも、自分からメールを終われない。
断るのが大の苦手で、主張もできず、
まわりからカモられがち…だとか。
四半世紀の歳月を経ても、
変わらんっ!!
「待ち合わせ場所に着いたよ~」の電話の瞬間、分かる。
中身、今も昔も一緒やん!!!
相手に気を使いすぎて、
自分がどんどん無理していく。
メンタルやられちゃうくらい困ってても、
SOSを出すのを申し訳なく思う。
挙句、仕事が続かなくて、恋愛も苦手で、
そうこうしているうちに親の介護が始まり、
自由に出かけられる時間が限られ…みたいな感じ。
大変だぁ~。
そこまで極端じゃないけど、
誰でもそういうとこがある。
つないでくれた友人も私も、
胸の中の同じ痛みが小さく共鳴してる感じ。
働けない状態にあると、病気だと認定される。
「そういうところを無くさないといけない」とか、
「主張しないと誰もわかってくれないよ」とか、
こっちが変わることを求められ、
困っているのは自分の責任だとされてきた。
それは、ある面では合理的だけど、
誰かが目の前で怒ってたら、
「私、何かやらかしたかな?」って思うのも、
普通の思考回路だと思うんだよね。
勝ち負けとか、効率とか考えたら、
そりゃ、自己主張できる方がいいけど、
みんなで仲良くやっていくには、
自然に相手を慮るのも、
必要な感覚だと思うんだよね。
もしかしたら、
そういうやさしい感覚に苦しんでいる人には、
その人ならではの、
大切な役割があるのかもしれない。
あまりにも実用的なことばかりに価値を置いて、
それ以外の合理的じゃない判断が、
無価値だとカウントされる時代に、
疑問を提出するための痛み。
人間は機械じゃない。
実用的でも合理的でもないところにこそ、
人間らしさが現れる。
たとえば、
相手の気持ちを大切にするやさしい気持ち、
簡単に答えを出さずに迷うこと、
周りの人の気持ちに響いて揺れちゃうこと…。
そういうことに価値を置くことは、
「実用的である」ことを越えた
人間ならではのこと。
それが無価値なわけがない。
多数決や統計データが、
最終的には信用できないのは、
人間には、土壇場の自由意志があることや、
合理的じゃない判断をする可能性を、
無視しているから。
やさしさは、「アリ」だ。
立ち止まるのも、「アリ」だ。
迷うのこそ、「アリ」だ。
自覚してはないだろうけど、
そういう、人間ならではの値打ちを無視して、
実用性一辺倒な時代の偏りを教える役割を
そのしんどさの中に担っているんだろうなぁ。
炭鉱のカナリアは、生きてるだけでいい。
炭鉱のカナリアが生きていられる社会を作るのが、
周りの役割だから。
▼本日のフォルメン 64/100
たとえば、この図の動きの、
内向きと外向きのとがりぐあいを、
自分(内向き)にはやさしく(丸く)、
人にはキビシク(とがって)などと重ねて、
自分の心に浮かぶものを繊細に感じてみる。
※「何コレ?おもしろそー」という方は、
コチラをどうぞ。
私にとっては、
心を整えるヨガであり、瞑想の時間です。
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