子どもの大好きな人が、
自分のことを大好きな子どもに、
時々キレて、怒る。
普段はあんなにやさしいのに。
子どものまわりで、そんな声を聞きたくない。
なんで、そんなアプローチになるの??
「叱る」はいいけど、「キレる」は違う。
もちろん、そう思う。子どもが可哀そう。
そう思った時には、
その人の思いや考えを聞きたい。
「なんでそうするの?」って。
まずは、何か考えがあってのことだと思うから。
どうせ聞くなら、うわべのやり取りは嫌だから、
相手から何が出て来ても受け止め、理解しようとする、
インタビューとか、傾聴とかに近い、
万全の受け入れ態勢で聞く。
すごい遠回り。
そこまで要らないのかもしれない。
ただ「子どもにキレないで」って、
伝えるだけでいいのかもしれない。
別の人は、アンチパシーのままに、
「私には違和感がある」って誠実に伝える。
話し合いが成立すればいいのだけれど、
そうでもない時には、その都度関係が悪くなっていく。
そして、最終的に決裂してしまう。
それも、遠回り。
大好きな大人同士がケンカしている状態は、
子どもにはとても辛いはずだ。
どっちにしても遠回り。
まわりが自分の理想通りじゃない時、
自分に出来る範囲で関わることで、
私は自分を許してきた。
たとえば、
キレられた方の痛みに寄り添うとか、
ほとぼりが冷めた頃に話題にして、
感情的じゃない状態で一緒に考えてみるとか、
自分の中で「人とは?」に意識的でいるとか。
「そういう役目なんだろうな」って思ってきたけど、
ひりひりした空気になるのがわかってて、
誠実にぶつかっていく人がいると、
自分の役割が、誤魔化しに思えてくる。
誠実にぶつかる人が、
私の何倍も傷つき痛んでいるのを感じて、
(しかも、それでも相手に伝わらないのを見て)、
「自分の出来る範囲」なんて言ってるのが
なんだかズルい事に思えてくる。
その人が、
「あれを見てるのが辛い」と言うのを聞いて、
私は、心を閉ざしていた、と気づいて驚く。
そうだった。
「考えを聞きたい」とか「理解したい」とか、
人間関係とか、「自分に出来ることは?」の前に、
小さな子どもにキレる大人は、理屈抜きで嫌だ!
感情に引きずられるのは嫌だけど、
心を閉ざすのは違う。
嫌なことに慣れてスルーするのは、
もはや悪だ。思い出させてくれてありがとう。
「これは嫌だ」という感情は、
ものすごく大事にしなきゃいけないものだった。
閉ざすな、開け。そして向き合え。
どうしたいんだ? 自分に出来る事は何だ?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます