『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

理屈抜きで嫌なのに、閉ざしてた

2022年03月24日 | 考える日々
子どもの大好きな人が、
自分のことを大好きな子どもに、
時々キレて、怒る。
普段はあんなにやさしいのに。

子どものまわりで、そんな声を聞きたくない。
なんで、そんなアプローチになるの?? 
「叱る」はいいけど、「キレる」は違う。
もちろん、そう思う。子どもが可哀そう。

そう思った時には、
その人の思いや考えを聞きたい。
「なんでそうするの?」って。
まずは、何か考えがあってのことだと思うから。

どうせ聞くなら、うわべのやり取りは嫌だから、
相手から何が出て来ても受け止め、理解しようとする、
インタビューとか、傾聴とかに近い、
万全の受け入れ態勢で聞く。

すごい遠回り。
そこまで要らないのかもしれない。
ただ「子どもにキレないで」って、
伝えるだけでいいのかもしれない。

別の人は、アンチパシーのままに、
「私には違和感がある」って誠実に伝える。
話し合いが成立すればいいのだけれど、
そうでもない時には、その都度関係が悪くなっていく。
そして、最終的に決裂してしまう。

それも、遠回り。
大好きな大人同士がケンカしている状態は、
子どもにはとても辛いはずだ。
どっちにしても遠回り。

まわりが自分の理想通りじゃない時、
自分に出来る範囲で関わることで、
私は自分を許してきた。

たとえば、
キレられた方の痛みに寄り添うとか、
ほとぼりが冷めた頃に話題にして、
感情的じゃない状態で一緒に考えてみるとか、
自分の中で「人とは?」に意識的でいるとか。

「そういう役目なんだろうな」って思ってきたけど、
ひりひりした空気になるのがわかってて、
誠実にぶつかっていく人がいると、
自分の役割が、誤魔化しに思えてくる。

誠実にぶつかる人が、
私の何倍も傷つき痛んでいるのを感じて、
(しかも、それでも相手に伝わらないのを見て)、
「自分の出来る範囲」なんて言ってるのが
なんだかズルい事に思えてくる。

その人が、
「あれを見てるのが辛い」と言うのを聞いて、
私は、心を閉ざしていた、と気づいて驚く。
そうだった。

「考えを聞きたい」とか「理解したい」とか、
人間関係とか、「自分に出来ることは?」の前に、
小さな子どもにキレる大人は、理屈抜きで嫌だ!

感情に引きずられるのは嫌だけど、
心を閉ざすのは違う。
嫌なことに慣れてスルーするのは、
もはや悪だ。思い出させてくれてありがとう。

「これは嫌だ」という感情は、
ものすごく大事にしなきゃいけないものだった。
閉ざすな、開け。そして向き合え。
どうしたいんだ? 自分に出来る事は何だ?


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