「認識の小道」というクラスを
新しくスタートさせた
神戸シュタイナーハウスの大人クラス。
認識する力、思考する力を磨くため、
大先輩のhasutamaさんが
毎回、いろんな素材を選んできてくださる、
「認識のさんぽ道」のリニューアルクラスです。
「魂の暦」に始まり、
自分の近況の中から、立ち止まって考えたことを話したり、
植物を観察することで世界から受け取る力を磨いたり、
お互いにシェアする時間をたっぷりと持ちます。
そして、今回からは『死について』の中から、
「思考の変容」を、読んでみよう、と。
始まる前に一応、サラッと目を通してみたのですが、
お~~ぅ、ややこしい…。
最初の印象、というか、自分に残ったのは、
「自分の中の既存の理解と重なるところを、
自分の中の既存の理解から出ない範囲で拾って、
わかったような気になってるな」という感じでした。
だから、感想を言い合った時、
わかったような気になったところについて
ちょこっとお話させてもらいながら、
「新しい本だというのに、
全然新しいこと入って来てないじゃん!(^^;)」
って思ってました。
今回、クラスの時間の中では、
原題と最初の文だけを読みました。
それをネタにあれこれお話してるうちに出てきた
今日一番の、印象的な言葉がコレ。
「まず、“わからない”って思うべきでは?」。
by hasutamaさん
ソクラテスが、無知の知から対話を始めたように、
「“わからない”というスタートラインに立つことで、
走り出せるんだ!」っていうのが腑に落ちて、
とても心地よかったです。
「うわ~~、やられた~。ホントにそうだわ!!」
っていう感じ。
シュタイナーが最初にややこしく書くことは、
「覚悟してついて来い!」だと思っていた。
だけど、もう一つ。
「わからない」のスイッチを押す、
っていう作用もあるなーー。
最初に「わからない」っていうスイッチを押して、
「ここから始めるよ」っていう地点を示してくれる。
そして、少しずつひも解いていってくれる。
今日は、本の内容よりも、本を読む前提として
「まず、“わからない”って思うべきでは??」
っていう言葉に出会えたことが、
もう、めっちゃ嬉しかったです。
これ、本を読む時に限らず、
人と出会う時にも、社会を見る時にも使えるね。
まず「わからない」から始めるといいな~。
「わからない」は「わかりたい」になり得る。
アンチパシーの「わからない!」は、
硬くて冷たくて相手を否定する方向だけど、
そこからの「わかりたい」はシンパシー。
今まで自分になかったものを理解しようとするから、
自分の幅が広がるね。
とは言え、
「わからない」って言いたくない感覚もあるなぁ。
「アナタの言うことがわからない」って言うのは、
失礼だし、「対話終了」になりがちだから。
あと、相手の話を止めたくなくて、
わからなくても「何のことかな」って考えながら、
続きを待ったり、続きを促すこともあるし。
あーそっか。
「わからない」を
「もうちょっと詳しく聞かせて」
って表現したらいいんだね。
ま、本の場合は遠慮なく
「ここもあそこもわからない!」って
ラインマーカーひいちゃって大丈夫。
そこが、本との対話のスタートラインですね!
同志発見!わかっていることなんて、考える必要ないじゃん!わからないから考えるんじゃん!と改めて強く思った次第。
考え続けることで先に進めるんですよね。thanks!