実感される方も多いでしょうが、
私が子どもの頃は
「みんながやるんだから、アナタも一緒にやりなさい」
みたいな価値観が生きていました。
それが、少しずつ
「自分らしくていい」と許されるようになり、
自分らしさを発揮することを応援されるようになり、
今や「自分らしさ」を主張できない人はダメ、
くらいの勢いです。
日本社会の価値観が変わっていくのを肌で感じてきました。
主張できない人はダメ、ってのは、行き過ぎ。
いちいち揉める必要もないし、
日本人に多く備わっている協調性も、
同調圧力じゃない方向で発揮できたら美徳だわ。
とはいうものの、
主張と協調、どちらが大事とかいう話ではなくて、
いろんな正しさや美徳がある中で、
今、この場ではどんなバランスがふさわしいか、
自分はどうしたいのか、という話だと思います。
私は子どもの頃から
「自分らしさ」を否定するシステムに妙に敏感で、
その自分の特徴?個性?によって、
「私は自由」になりたいんだ、ということがわかりました。
ふと思ったんですが、
「自分らしさ」を否定されたくないのは、
何かを強制されるのが嫌だという“感情”に加えて、
「人として成長するには、
今の自分をまるごと受け入れる所から始めなきゃ」という
“精神”のニーズが重なっているんじゃないかな。
誰かのための行動もできるし、
何かに役立つ能力を伸ばすのも必要だけど、
真っ当な大人になって、真っ当に死んでいくためには、
自分の全部を育てることが必要。
だからこそ
自分の一部を生かしているだけじゃ足りない。
自分の多すぎるところも足りないところも含め、
「自分らしさ」をまるごと引き受ける勇気を持って、
その上で、伸ばしたいところを伸ばす。
自分をまるごと育てていくためには、
自分の一部を見ないふりしている場合じゃないんだ。
と、思います。
私なんぞは浮きっぱなしなので。
たいへん参考になりました。
ありがとうございます。
なるほど。
意識しなきゃ
あくまで他人から決定された「自分らしさ」をその人が受容しているかどうかによって成立するものではないでしょうか。
いつも側にいる人が、その人らしくない振舞いをした時に、人は心配をすることが出来るわけです。
つまり「らしさ」とは、論理や理屈から導き引きだされるものではなく、生活していく上において欠かすことのできない感覚であり、他人によって共有可能な、すこぶる実践的な共通感覚ということです。
今の自分をまるごと受け入れるのは難しいですよね。受け入れるのが怖くてカラダと切り離して頭だけで処理したり、心の一部を切り捨てたり、都合いい所を拡大加工したりしてる。自覚できない所で。
そうやって浮足立ってる方が、人から見られたい「自分らしさ」が保てるのかな。「日本人は人に期待されるキャラを演じがち」って何かで聞いたことあるなぁ。
人から見た自分と本体(?)とのズレに気付いた時、見た目と本体を折りあわせようとするなら、普段と違う事を言い始めるでしょう。それ全部含めて自覚できるから、そんな自分を引き受けよう、と。
まぁ、そういうややこしい性格なんです。