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「ディベート」ってのが、
学校教育に取り入れられると聞いた時、
あんまり好きになれない気がしました。
やってもないのに、
ディベートに失礼なんだけど、
その理由が、だんだん言葉になってきました。
その技能は必要だけど、本質が苦手、みたい。
あんまり好きになれそうにない理由は、
「自分の意見じゃないグループに入れられたら、
そっちを主張しないといけないから」
というのが変だと思っていたのですが、
でも違った。
でも違った。
今日やっとわかった。
ディベートと仲良くなれないな、
という予感があったのは、
「勝ち負けを付けて終わるから」でした。
私が好きなコミュニケーションは、
勝ち負けを付けない、
関わったみんなが嬉しくなるような対話。
テーマのないおしゃべりだったら、
みんなが楽しくなりやすいけど、
ちゃんと何かについて話を深めていきながら、
それでも違った意見を持つみんなが嬉しくなれる対話。
そんなのを目指したいのでした。
他愛ないおしゃべりと違って、
テーマのある話をしていて、対立する意見が出た時に、
勝ち負けを決めるのは、どっちも負けてる気がする。
両方を包括して、もう一次元上の新しい本当に至れたら、
その時は、「うわ、ホントにそうだね!!!」って、
勝った負けたを越えて、両者とも晴れ晴れと嬉しくなる。
そういう対話をするためには、
ちゃんと相手の話を聞くのはもちろん、
ちゃんと自分の意見を伝える努力もしなきゃな~。
そっちが欠けてたな~と思う。
モメそうなら、すぐ諦める。
しかも相手のせいにして。
全然人の話聞かない人だな、とか、
怒ってるから今は無理そう、とか。
それもあるけど、半分は自分のせい。
それでも伝える方法を持っていればいいだけの話でした。
話を聞かない人にも伝わる説得力を持つこと。
怒ってる人にも言葉を届ける力を持つこと。
それができれば、相手のせいにしなくて済む。
考えるだに難しすぎて、
そんな方向の努力があることを、
全然気づいてなかったのでした。
今までは、
相手が感情的になって無茶なことを言ってても、
感情部分を除いて、何が言いたいのか、
なんとか内容を理解しようとするのが
「大人のふるまい」だと思って、そっちの努力をしてた。
おかしいよね。
相手を尊重するのと同じように、
自分の考えや感じ方も尊重してあげないと。
そして、何でもかんでも大人のふるまいをして、
いい顔をしていたら、
それはもはや「誰でもいい」になってしまう。
人間関係を作れなくなってしまう。
周りの人を赤ちゃんみたいに信頼して、
「自分はこう思ってるのよ!」ってことを、
あけっぴろげに伝えてる人が周りにもいる。
その人たちは、今までそれでいっぱい
自分も傷ついてきたはず。周りも大変だけど。
それでもよく諦めずに伝え続けてきたな。
本当に尊敬に値する。
そして、そういう人こそ、
豊かな人間関係を築いているように見える。
そういうことか~。
良く見せようとか、大人のふるまいをしようとか、
そういう鎧を着なくていい。
小さくていいんだ。
そうそう。ついでに。
ディベートで、
自分の意見じゃない方のグループに入れられるのは、
自分の思考と感情を切り離してみるという
ココロの筋トレを伴う訓練にもなると思う。
ただし、
自分の思考と感情を客観的に見る訓練は必要でも、
私は、思考と感情を切り離さず重ねれば重ねるほど、
幸せになっていくと思うな。
つまり、ディベートは私にとって、
口論に勝っても幸せにならない技能、
っていうこと。
そこが抵抗を感じるところ。
人に自分の意見を届けるための、
説得力向上の練習にはなりそう。
それは、私に欠けてて、とても大事な技能だね。
そこが私に必要なところ。
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