願興寺境内には「信玄祈願石」なるものが残っている。この地域は信玄の先方隊「秋山伯耆守」の付け火があり、願興寺はその類焼で焼失の憂き目に陥ってしまった。幸い、近隣の禅寺である愚渓寺の僧侶たちの献身的な働きにより、現存する24体の重要文化財は焼失を免れたことは公式サイトでお伝えしてある。
願興寺を焼失させてしまったことは、仏教に帰依していた信玄にとっては悔しく悲しいことであったという。願興寺境内にて部下たちを集め、秋山伯耆守」を激しく叱責したという。その上で、信玄は高らかに願興寺の復興を約束したという。それが1572年のことであった。写真は信玄の祈願石である。
残念なことに信玄は翌年の1573年に亡くなってしまう。その後、地元の一庶民であった玉置与次郎の一念発起で1581年に庶民の力を結集して復興を成し遂げた。信玄が復興していたならば、庶民の息吹漂う願興寺とは違った趣の寺院となっていたであろう。
信玄のライバルで、願興寺を本陣のしたことのある織田信長が没するのは、願興寺再興の翌年1582年である。こんな激しい時代の中で一本庶民たちが願興寺を現存させたのである。
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