見出し画像

もんく [とある南端港街の住人になった人]

世の中に問題はたくさんあるけど、それって本当に問題なの?

Xを見ていると、世の中には多くの問題があってそれに対して怒っている人がたくさんいる。その問題は多岐に渡っていて多くの他人が共感できるものやほんの些細なことで受け流されるだけのことといろいろだ。いずれにせよ世の中は何らかの、そして種々のレベルで問題だらけのようだ。

しかしながら、そうした状況を見て思うのは何か一つでも問題は解決しているのだろうか?ということ。見る限りにおいて解決はほとんどしていない。もちろん明確に犯罪があるなどで犯人逮捕となればそれは一つの解決ではあるが、そんな明確な解決はあまりない。

なぜなら法律で裁ける種類の問題は少しだけであって、ほとんどはAさん側が自分を正しいと思っているがBさん側はそうでなくて自分を正しいと思っているからだ。もしかするとAさんはBさんが言っている正しさも問題も気にしていなくて問題ではないということもある。

まあ、皆さん問題を自分の中に抱えることはするが解決策も同時に頭の中に思い浮かべてしまってそれが他の誰の解決策にもならないというのは普通にある。会社である人が「これは問題だ!」と叫んだところで周りは皆シーンとして「じゃ、次の議題に行こう」となるとそれは問題じゃない。問題じゃないから解決する必要もない。終わり、だ。そういう経験は仕事でもしていると皆あると思う。残念ながらそういうことばかり。世の中だって同じ。

つまり、「問題」というのは解決策が本当にあることだけだ。それ以外は問題と言って良いものではない。

でも、こう言うと釈然としないと思う。そういう時は少しよく考えてみる必要がある。もし自分が問題だと思うことを解決しなかった場合どうなるだろう?放っておいて何年か過ぎたとしてどうだろう?気にしなかったらどうだろう?自然と問題が消えていくことは考えられないだろうか?他にも似たようなことを問題と言っている人がいて、その人は解決できているだろうか?まあ、繰り返し繰り返し、世の中にはいろいろあって決定打はないとすぐにわかる。その結果がXなのだ。


そしてもう一つ言えるのは、問題の相手が物分かりが悪いとか理解力がないと思えた時、自分はどう対処するかだ。Xでよくあるように罵り合いをするならば絶対に相手は自分の間違いを認めることはない。ちょっと前に都知事選に出たI氏は自分が正しいとずっと言い続けて戦った。言っていることは合理的なものであったにせよ、戦うという方法で相手はどうなったかだ。「はい、私が間違ってました。改めます」とは言わなかった。正しいことを言ってさえいれば、というのはとても独りよがりで解決策の一部にはならないとわかる。犬がワンワンと怒って吠えた時に自分もワンワンと吠えたら解決にはならない。自分は犬じゃなくてその上の立場に立って相対する時に初めてどうにかなる。そのためには酔っ払った時のように前頭葉の働きを減衰させて感情的なっていては無理だ。自分は別のレイヤーに退避して体勢を整えなければいけない。

まあ、多少訓練が必要だろけれど。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日本でニャー2024」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事