活断層ハウスに来ている。世にも珍しい商店街の先に見える富士に日が沈む、つまりダイヤモンド富士を見に来た。アナウンスしたのに来たのは自分以外にたった1人。ガッカリだ。こんな富士と夕陽、他のどこで見られるっていうんだい?! まあ、今日は山頂のみ雲がかかって見られなかったけどさ。
仕方ない。
たまには建築のこと。
Xである建築家であり建築関係のジャーナリスト?のようなことをされている方が隈研吾氏の建築についていろいろ言い始めた。というのは隈作品は外壁や屋根上などに木材を使用しているものが多いが、先日そのうちの1つの公共建築物で木造がボロボロになっていて改修費用が高額という報道が出たのがきっかけだ。
ただ、その建物は28年経過していてそこまでにメンテナンスされていなかったらしい。それを設計責任とするかメンテナンスを怠った結果とするかはいろいろ考えなければならないが、上の画像のように「被害」のように言っている。
ちなみに税務会計法上の耐用年数は22年。つまり22年経過すれば(家屋の場合)固定資産税はゼロで無価値扱いになる。(実売買ではそうではない) また、国土交通省の木造住宅期待耐用年数(住宅)は最長100年だが、骨組みや基礎軸組の木材が適切に保たれていて長期優良住宅でメンテナンスが行き届いていればという注釈付でのこと。
つまり、これを被害のように言う根拠というのは無いと考えられる。住宅メーカーのセールスマンならもう価値が無いので建て替えてくださいと提案してくる建物と言える。
まあ、そういうわけなので隈研吾氏の設計を一方的に悪扱いするのはどうなのか? (自分は隈研吾建築が好きで擁護するわけではない。特に氏のファンでもないし、作品が好きというのでもない)
ここまでは前置きとして・・・
我々はこうしてある物事を基にその行為者(人間)を批判することに何とも思わない習慣がある。事でなく、人をターゲットにする。
仮に、隈研吾氏の作品の耐久性が他の建築家のそれと比較して極端に低いとした場合、隈氏はわざとそうしているだろうか?メンテナンス収入を余計に得たくて発注した自治体の議員と結託して耐久性の劣る設計をしただろうか?それとも何か他の意図や悪意あってのことだろうか? それなら確かに人を批判するのはあり得るだろうが、たぶんそんなことはない。
つまり氏の設計方法に問題があるとすれば、批判されるべきは氏本人でなくて設計の手法の方のはずだ。この違いは小さくはない。もし人を批判してしまうとそこに議論は発生しないからだ。「隈さん、あなたの作る空間は見事だが、建築物として考えた場合耐久性が悪すぎませんか?」というのと「これは隈研吾による被害だ」というのでは違う。「あいつはバカだ」と言ったら相手が「はい、すみません。私は確かにバカです」とでも言わなければ次の話にはならないが、そんなことがあるわけはない。
そもそも建築というのは、作品を作る行為ではあるが、その行為は過去から数ある建築作品の議論の中に自らの作品を投入して議論に参加するということだ。その議論を拒否した時、それは建築という行為なのか?建築というやり方と言えるのか?ということでもある。
建築に限らず、一般社会の中で「あいつ、バカ」と言ってそこから相手との間に何か産まれることはない。あいつはなんとか派だ、あいつはリベラルでこいつは保守だとか右翼だ。そんな分類をすることは多いが、それは相手との話をしないという決意表明過ぎない。相手を取り残したまま自分だけが正しい、永久に。自らの考えを覆すことはないし、誰かがたまに良いことを言っても無視して自分はこれ以上学ばないという宣言だ。
そんなやり方の何が面白いのだろうか? 人間として議論せずにいて自分だけが正しくあり続けるというのは正しいやり方なのか?