屋根裏部屋にファン用のコンセントを増設した。
屋根裏部屋は物置のようなものだけれど、天井が張られていなくて屋根の傾斜に合わせて内張があって壁紙で仕上げてある。その壁紙が熱で剥がれるので応急的な措置としてファンを置くことにした。そのうちDCモーターの省電力ファンでも買おうと思っているが、その前にコンセントを設置した。
コンセントは2階の廊下の突き当たりの電灯と連動するようにして、電灯が点灯している時にはファンが回っている可能性がある(ファン専用スイッチがある)とわかるようにした。電灯はほとんど使わないのでインジケータの代わりだ。今日の作業はそんなところ。
ちょっと前に欧州がEVしか売ってはダメにすると言い出して世の中がEVシフトと騒ぎ出した。(その後ちょっと変わったが) そしたらその後、特に最近だけれど、それを現実的でないと言う人が増えてきた。バッテリーの質量/体積エネルギー密度の問題、バッテリー資源の問題、充電に用いる電気の燃料の問題、バッテリーを生産する時の炭素排出量の問題あたりが焦点らしい。
でも、誰も言わないのが、自動車という物の社会の中の位置付けが変わるのでないかという事。どの意見もエンジンの自動車が素直にバッテリーと電気モーターに交換されると考えた上での話になっている。その部分だけどう見ても欠けている気がする。
例えば自動車を自分で運転しなくなったとしたら、自動車が今の自動車のようなものであり続けるだろうか? 東京から京都まで高速道路に乗って行くとして、今は全部の行程を自分で運転する以外に方法は無い。途中で休憩しながら前を見てしっかりハンドルを握って運転する。それが無くなった時、人は自動車をどう捉えるだろう? ぶっ飛ばしても快適でスポーティな感覚の味わえる車をそれでもまだ選ぶだろうか? 選ぶ人もいると思うが、全員がそうではないだろう。今は軽自動車でも高級セダンでも大きさが違うだけで造りは同じだが、将来も同じままだろうか? 今は宅配便は人が車に乗って来るが、将来はレストランの配膳ロボットのように車だけが来るとしたら、今のバンとは全く違う何かに変わっていないだろうか? 荷物の移動を機械がするようになった時、トラックは今のままだろうか?
そうしたいろいろな変化が起きて、その時の自動車を今のエンジンを電気モーターに交換しただけの物と考えて良いのだろうか? 前提条件が変わる事をもっと考慮しないとならないはずだ。