「1970年代のアメリカ。マイノリティのために戦った政治家、ハーヴィー・ミルク」とポスターに書かれているが、映画の中でのマイノリティとは具体的に言うと”ゲイ”だ。そのゲイ(台詞では”ホモセクシャル”と言っていた)の人権のために戦ったと言う事だ。
ホモセクシャルの為に戦うと言うと、人々の偏見に立ち向かった単に勇気ある人物であるからある種の英雄と簡単に理解されるだろう。そこで終わりでもまあ、仕方ないかもしれない。
<ここで話を切替える。>
”自由”ってどう言うものだろう?
(最近この言葉について書くことが多かったかもしれない。)
どこまでも際限なく続く青い空。その青の縁を負うまでに広大な野の緑。この清清しい空気の中で自分は何でもできる。何の心配もなく永遠に過ごせるほどの自由。
.....そう言う見方もある。
世の中にはお金と言うものがあって、それは印刷された紙であったり刻印された金属片であったりするだけの物なのに何故か大切にされたり集められたり交換されたりしている。それはお金自体に価値があると言うのでは無くて、みんなが、単に信じているから、だから価値があるように扱われる。
人の自由と言うものも、実はお金と同じようにみんなが信じているから存在するものなのではないだろうか。
人はあるカテゴリーの中に居て、そのカテゴリーの流儀に従って生きている。その流儀は秩序と言ってみんなを安心させるものになる。秩序の中にいる限りにおいては自由だと感じるのだけれども、たまにあまり見たことのないお金が流通すると「そんなのは認めないぞ!」価値は無いと拒否されるハメになる。
「いやいや、僕達のお金にも価値はあるのさ。認めてくれよ!」と言った勇気のある一人がミルクなのだが、問題は彼が英雄だってことで終わりなのではないだろう。彼を単に正しい行いをした英雄として見てしまうのは、自分がマジョリティだと意味もなく確信していたり、本当はそうでは無いのに隠して生きているからだと考えてみたらどうだろう。
自分がホモセクシャルでは無いにしろ、少しだけ他人と違っていたり、ちょっと違った生き方をしていたり、多少見た目が違ったりしている事について、他人との共通部分と同じかそれ以上に価値を感じているのならば、その価値を他人の前にお金のように流通させる事を躊躇しないならば、それこそ本当の自由なのではないか。
逆に他人の価値を、それが自分のそれと少しか大きくかはわからないが、違っていたとしても信じることが出来たらそれが本当の自由なのじゃないだろうか。
そう考えると、自由は青空のように自然に存在するものではないように思う。人の中にそれは流通している、と言うより流通させてこそ価値あるものなのだろう。我々の先人は、例えばミルクのような人達によって、血をだらだらと流しながら見出してきたものと言えるだろう。
自由は無料(Free)じゃないのだ。
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