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もんく [とある南端港街の住人になった人]

今日はムルデカの日

ムルデカ、つまり独立です。
マレーシアの独立記念日です。

昨夜、ケーキ屋さんの店頭にあったマレー語のフリーペーパーをもらってきた。
何で読めないフリーペーパーをもらってくるかと言うと、
元は猫たちのウンチを処理するためだった。
つまり、古新聞と同じこと。

最近は猫たち、近くの空き地で用を済ますので家のトイレは使われなくなって
それとともにフリーペーパーもあまりもらわなくなっていた。

昨日は久しぶりにもらってきて中を見ると、
さすがにこの時期だけあって独立記念日のお祝いとかそれに関連した
企業のプロモーション広告が多い。

その中に1つ、ある写真が使われているものが目に付いた。
有名な独立記念モニュメントの写真だ。

googleで「マレーシア 独立記念碑」あたりで画像検索するとたくさん出てくる。
下に踏まれているのは日本兵と言う設定だとか。


それはそれとして、
毎年この時期になると思う。

独立、他者の束縛からの「解放」、これが被支配者(国)としては普通の発想なのだ。
日本は戦争に負けても支配は受けていないからか、
独立と聞いてそう言う発想は浮かんで来ない。
独立の意味としては「自律」に近い感覚がより強い。


そうして思うのは、独立が解放であれば、
自分は誰かに支配される立場「ではない」と表明しているわけで、
逆に人は人を支配する場合があったり、
もっと言うと人には他人を支配しようとする欲求か性質のようなものが
普遍的に?、習慣として?、または元来の性質として?あるのではと言うような
危機感みたいなものがその裏に感じられないでもない。

つまりは解放の意味の独立と他人への支配、
それらは同一線上の思考のように感じられる。


人間と言うのは他人をを支配したいと思う性質がある、
そんな動物なのだろうか?
…だろうな、と思わないではない。

日常でも他人の上に立ちたいと考える人はたくさんいるものだし、
他人よりも優れていると思いたい気持ちもある。
それで自分と異なるグループに属する人たちを侮辱したり
実際に暴力をもって痛めつけたりと言うニュースも見聞きする。


もし現在の人間がそうした動物であるのなら仕方ないのかもしれない。
でも、もし未来に人間が少しでも進化して
もうちょっとマシなものになるのであれば、
お互いに優劣を競ったり傷付けあったりするのでない
もっと楽な関係を築ける動物になると良いなあと思う。

そうしたら独立が他人の暴力的支配からの解放でなくて、
自分が自分で何でも決められて行動できる自律の方に近付くのだろうと思う。



昨夜もうちのキナコ(♂)自分の縄張りを守るために近所の黒白猫を追っていた。
日付けも変わった午前1時半頃だった。
(キナコが怪我しないかと心配で起きて見に行ってしまう。寝不足。)

白黒猫とはもう1週間以上にわたってやりあっている。
なかなか勝負がつかないらしい。
キナコは自分の国を守るのに日夜唸り声を上げたり、
鼻を突き合わせて毛を逆立てている。

猫と人間、
とりあえず今のところ、
やっている事はあまり変わらないのだろうか?
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