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2018.6.22【PRESIDENT Online 2018.6.22⑵|早大セクハラ疑惑_「現役女性教員」の告白 組織ぐるみで「口止め」を図ったか_1|渡辺直己

2018年06月22日 | ⑴狂信的な意志が動員される身体《暴力と差別・排外の愛国=掠・姦・殺》
とりあえず、アップした。整形ができていない。あすの仕事にしたい。

 このプレジデントの記事、先日の記事、ともにだけど。《時代が変わったんだよ》、仕事や、社会に出ていく女性が、安心して心おきなく、《女性として働くこと、生きていくこと》なんだよ、仕事だけでなくね。そこんとこが判っていないんちゃうかな
プレジデント社さん。
まずは、あしたまた考える。
by龍隆2,018.6.22



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2018.6.22 PRESIDENT Online 2018.6.22
⑵|早大セクハラ疑惑_「現役女性教員」の告白 組織ぐるみで「口止め」を図ったか
  プレジデント編集部 鈴木聖也


 早稲田大学文学学術院の現代文芸コースに通っていた元大学院生の女性が、渡部直己教授から「おれの女になれ」と言われるなどのハラスメントを受けた問題で、女性から相談を受けた女性教員がプレジデントオンラインの取材に応じた。女性教員は別の男性教員から「どこで誰に何を言うかはよく考えたほうがいい」と口止めを受けていたことを明かした。「セクハラ疑惑」の第2弾をお届けする――。

「どこで誰に何を言うかはよく考えたほうがいい」
 被害女性が早稲田大学のハラスメント防止室に提出した「苦情申立書」によると、女性は渡部直己教授からハラスメントを受けた後、コースの主任だった男性教授に相談を持ちかけたが、「現代文芸コースがつぶされてしまうかもしれないので、口外しないでほしい」と口止めを受けたという。

 一方で、早大の女性教員によると、このコース主任だった男性教授とは別の男性教員も、この問題を事前に把握し、周囲に口止めを求めていたことがわかった。

 早大の女性教員は、渡部教授のハラスメントを以前から問題視しており、周囲に注意を呼びかけていた。そして被害女性から相談を受けたあと、女性教員は男性教員から「どこで誰に何を言うかはよく考えたほうがいい」といわれたという。

 女性教員は6月18日、プレジデントオンラインの取材に対し、次のように答えた。

「これは『一発アウトだな』と思いました」
――元大学院生の女性が渡部教授からハラスメントを受けていたことは知っていたのか。

 「私がハラスメント事案を知ったのは、2017年の4月下旬です。授業の帰り道で彼女と一緒になり、彼女から『渡部教授から、俺の女になれ、と言われた」と明かされました。彼女の話をよく聞くと、これは『一発アウトだな』と思いました。彼女に対しては『教授を辞めさせることもできると思うけど、あなたはどうしたい?』とは伝えました。すると彼女は『渡部ゼミから違うゼミに移動させてほしい』と言ってきました」

 「その時の私は、教授を辞めさせたいと言わなかったことを根拠に『可能な限り穏便にすませたいのだな』と彼女の気持ちを読み間違えてしまいました。せっかく私を頼って相談してきてくれたのに、どうしてその時にちゃんと気づいてあげられなかったのか、とても悔やんでいます。彼女には本当に申し訳なく思います」


渡部教授と近く『早稲田文学』の制作にも関与 2ページ
――女性のその後の様子は。



 「早稲田文学 2018年初夏号」(筑摩書房)。表紙には渡部直己・早大教授(右から2人目)が写っている。
「それが……。その後、彼女とはこの件ついてほとんど話していませんでした。彼女の希望通りにゼミが変わり、てっきり上手くいっているものだと思い込んでいました。事態がここまで深刻だったと気づいたのは、彼女が苦情申立書を大学に提出した直後です」

――男性教員とはどういう人物か。

 「文化構想学部の人です。渡部教授との距離が近い方で、『早稲田文学』の制作にも携わっています」

――男性教員にどんなことを言われたのか。
 「昨年の11月18日でした。キャンパス内で作業をしていたら、男性教員がひょっこりやってきて『いまちょっといい? 研究室にきてくれる?』と呼び出されました。研究室に入ると、『あなた、渡部さんがセクハラしていること、外の人に話していない?』と切りだされました」

 「私はたしかに、渡部教授が女子学生を困らせがちであることを、飲み会の席などでしゃべっていました。大学が教員のセクハラについて、もっと啓発してくれればいいのですが、そういうわけでもないので……。いわゆる草の根運動のつもりで、渡部教授の話をして、周囲に注意を促していました」

「一種の口止めなのだろうと感じました」
――渡部教授はハラスメントをしていたのか。


 「私が直接関わったのは、今回の女性の件が初めてです。ただ、過去に、彼女とは別の学生が渡部教授にセクハラを受けていたという話を間接的に聞いたことはあります。だから、私は男性教員に『でも、本当のことです』と伝えました」

 「すると相手は『そう言われちゃうとあなたの目を見て話せないんだよなぁ』と。つまり、そんな正論を言うなよ、という意味なのかなと感じました。それに続く形で、『あなたが考えたうえで話しているなら、僕は何も言えないけど、そうじゃないならやめたほうがいいよ』と言われました。話の流れからいって、これをアドバイスと受け取ることはできませんでした。一種の口止めなのだろうと感じました」

学生ファーストではなく、大学ファーストな体質 3ページ
「渡部教授の魅力は学生とよくつるむこと」
――“口止めされた”と感じたあとは何を話したのか。


 「そのあとは『あなたにはわからないかもしれないが、(セクハラ被害を受けた)女性にもよくないところがある』『渡部教授にセクハラされる学生には自分から近寄っているという部分もある』『渡部教授の魅力は学生とよくつるむこと。彼から何もかも奪ったら、彼の魅力がなくなってしまうのではないか』と言われました」

 「私は『学生と楽しく飲むことと、渡部教授がその女性にしたことは違うのでは』と指摘しましたが、相手は『うーん』と黙りこんでしまいました。無理な要求をしていることはわかっているけど、察してくれ、忖度してくれと言いたいのだろう、そんな印象を受けました」

――その時、何を思ったか。

 「私は被害を受けた女性については、ゼミも無事に移動できて、万事順調にいっているものだと当時は勘違いしていました。ですからこの先生は、もう片付いたはずの事案について、随分と慎重な対応をする人だなと感じました。あとから、問題がほとんど片付いていなかったということがわかり、愕然としました」

学生ファーストではなく、大学ファーストな体質
――女性はハラスメントについて現代文芸コースの主任だった男性教授に相談したが、「コースの外の人に口外するな」と対応されたとの証言がある。この男性教員は、元主任の男性教授にもなんらかの指示を出していたのか。

 「それはわかりません」

――女性は早稲田大学のハラスメント防止室に駆け込んだが、そこでもつらい思いをしたと主張している。教員からみて大学の対応についてどう思うか。

 「被害女性にしっかり寄り添えなかった私がこのようなことを言える立場にはないのですが、学生に対するケアがまだまだ足りないと感じます。過去にも、とある教授がセクハラ事案で辞職するということがありました。防止室の調査が始まるとすぐその教授の授業は休講になりましたが、学生は何があったのか、なぜ休講なのかをなかなか教えてもらえませんでした。結局、学生が大学側に説明会の開催を求めるまで、何の動きもなかったんです。その時から、学生ファーストではなく、大学ファーストな体質があまり変わっていないのではないかと不安に思い続けています。私が草の根運動的なことをせざるを得ないと考えるようになったのには、そうした背景があります」


「一教員として、彼女の現状をとても心配しています」 4ページ

「ここまで成長できたのは渡部先生のおかげ」
 女性教員は、昨年11月、男性教員との面会直後に一連のやりとりを知人に報告している。プレジデントオンラインがメッセージアプリの送信記録を確認したところ、「男性教員に呼び出され、渡部教授のことを外に話すときは気をつけるようにいわれた」などと書かれたメッセージが残っていた。

 また、被害を受けた女性が大学のハラスメント防止室に提出した「苦情申立書」によると、男性教員は今年1月、教員と学生の懇親会に出席していた被害女性に対して、「君がここまで成長できたのは渡部先生のおかげなんだからちゃんとお礼を言ってあげて。もうおじいちゃんなんだから」などと発言したという。

 男性教員は6月20日、プレジデントオンラインの取材に対し、次のように答えた。

「一教員として、彼女の現状をとても心配しています」
――渡部教授のハラスメントに関し、教員に対して口止めを指示したか。


 「いろいろお話したいが、今は大学広報に対応を一本化しているため、個別には対応できません」

――被害女性に対しては今年1月に「渡部教授にお礼をいいなさい」などと発言したのか

 「その場で彼女と会話はしたが、内容については、同様の理由でお答えできません」

――コースの主任だった男性教授には口止めを指示したか

 「お答えできません」

――被害女性に対して今、何か思うことは

 「一教員として、彼女の現状をとても心配しています」


早大は「一部報道について」とリリース 5ページ

6月20日、プレジデントオンラインが渡部教授の「セクハラ疑惑」を報じた後、早稲田大学は「一部報道について」というニュースリリースを出した。内容は以下の通りだ。

一部メディアにおいて、本学教授によるセクシャル・ハラスメントに関する報道がされております。報道内容が事実であるとすれば、誠に遺憾です。本件につきまして、本学では調査委員会を設置し、事実確認を進めております。事実確認を踏まえ、厳正に対処する所存です。
また、当該報道において、本学ハラスメント防止室の対応についての記述がございました。本学としましては、ハラスメント防止に関する基本ポリシーのもと、所定の手続きに沿って対応しております。しかし、今回のご指摘を真摯に受け止め、今後のあり方についても慎重に検討を進めてまいります。
                                  2018年6月20日
                                  早稲田大学

プレジデントオンラインでは引き続きこの問題を報じていく。





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note
渡部直己教授について
倉数茂
2018/06/22 03:28



 早稲田大学の渡部直己教授がセクハラをしたという記事を読んで愕然とした。私は1997年からの2年間、近畿大学の大学院で渡部直己の授業に出ていた。修士論文の副査にもなってもらった。渡部直己は私の恩師である。修士課程を終えて、他の大学に進学して以降も、数年に一度程度だが会う機会があり、2011年から2年、事件の舞台となった早稲田大学文芸・ジャーナリズム論系で非常勤講師を務めるにあたっても、彼の口添えがあったのだと思っている(確認はしていない)。その意味で、私は渡部直己に近い人間であり、冷静かつ中立に語れる立場ではない。その旨はあらかじめ断っておきたい。
 まず、今回のセクシュアル・ハラスメントに関してだが、弁護の余地はないと思う。大学院生と二人きりで飲みに行くというのですでに微妙だが、その場で関係を迫るというのは完全にアウトである。相手が学生でなければただのスケベ親父案件で済んだかもしれないが、教師と学生という非対称性が存在する以上、セクハラであることは動かない。渡部直己は自分がしてしまったことの責任を引き受けるほかはない。
 電車の中で、当該の記事を読んだときは、頭を抱えたくなった。「渡部先生、やってしまったか」というのが偽らざる感想だった。渡部直己がある種のスケベ親父であることは、周囲の人間は皆知っている事実だったからだ。もっともスケベ親父であること、つまり、飲み会の席で下品なギャグを飛ばしたり、他人の恋愛事情に興味津々であったりすることは、嫌われたりバカにされたりは避けられないとしても、それ自体で罪ではない。しょうもないが愛すべきおっちゃんだ、という判断はありうるだろう。実際、私にとってはそうだった。飲んでいるときの渡部直己は、批評家や教員としての評価とは切り離して、「しょうもないが愉快なおっちゃん」だった。
 だが、迫られた女性にそのように捉える余裕はなかった。当然のことだろう。ただの下ネタとは違って、関係を求められたのだ。「逃げてきた」と泣きながら知人に訴えた被害者の心情は察するにあまりある。結局退学に至ったというのだから、学業を道半ばで断たれてしまったことになる。功利的な理由で文学学術院を選ぶ意味などないから、本当に心から文学を愛し、創作について考えたいと思って入学したのだろう。同じ文学研究の道を歩んで来た人間として、彼女の辛さ、悔しさ、悲しさはよくわかるつもりだ。その後の大学の対応もなんともお粗末だ。
 かえすがえすも残念なのが、なぜ渡部直己は謝罪しなかったのかということだ。手紙でもメールでもいいから、真剣に謝罪して、何度でも許しを請うべきだった。近畿大学の教授時代に、セクハラではなく舌禍により──渡部直己の毒舌は有名である──複数の学生が渡部直己に抗議を申し入れたことがあった。彼は反省し、数日後、学生たちのもとに謝罪文が郵送されてきた。当時、受取人の一人であった私の妻によれば、きわめて長文の真摯な手紙であったという。はるかに深刻な今回の事件に際して、どうして同じことができなかったのか。
 以上のように、渡部直己はとてもアクの強い、周囲に好悪の反応を引き起こす人間である。基本的にマッチョで、高飛車な物言いが多い。が、同時にとても繊細で、自分の言動が他者を傷つけてしまったと気がつき、悔悟することもあった。それだけに、悲しい。
 現在ツイッターには、渡部直己を嘲笑し、非難する言葉が溢れている。それは致し方がないと思う。けれど、私の知っている渡部直己は、傲慢な怪物でも、鈍感な権威主義者でもない。いや、威張りんぼではあるけれど、他者の痛みにも敏感で、学生の資質に惚れ込む献身的な教育者でもあったというべきか。その教育スタイルと今回のセクハラが結びついているのが悩ましいところなのだが。
 
 次のような例がある。
これも近畿大学の頃の話だが、こんなことがあった。学部の一年生の授業で教壇に立った渡部直己が、この中で村上春樹が好きな人いる? と尋ねる。一年生くらいだと、村上春樹を読んでいるというくらいで、ちょっと誇らしかったりする。意気揚々と手をあげた学生を指差して、渡部は「ふうん、あんな田舎っぺの読み物読んで、何がおもしろいの」(大意)と言ってのけるのだ。そして作品の細部を次々に取り上げて、いかに春樹がダサいかを華麗に説明してみせる。
 なんてことを、と憤慨する読者もいると思う。他人の趣味を否定して何が楽しいのか、と。だが、中にはそれで目から鱗が落ちる学生もいたのだ。つまり、それまではえらい作家だと思っていた村上春樹も、この世界に数多存在する書き手の一人にすぎず、さらに文章の細部に着目することで、単にストーリーを追うのとは違う新しい読書体験が開けるのだと気がつく。そうした学生たちは、渡部直己推奨の作家たち(谷崎潤一郎、泉鏡花、金井美恵子、中上健次など)を読んでいくことで、文体の力に気づき、言葉とイメージが絡まり合うダイナミズム、エロティシズムに目覚めていく。渡部流のテクスト論の実践である。そうしたとき、彼はまちがいなく優秀な教育者だった。
 とはいえ、私は大学院生としてそうした光景を観察しながら、自分が教える立場になったとしても、とてもあんなことはできないな、と思っていた。渡部直己のスタイルは、まず学生の価値観を崩壊させ、そこに自分の考え(春樹はダメ!)を叩き込むというものだ。あまりにマッチョで、高飛車で、上から目線だ。劇薬である。失敗例だって多々あるだろう。(反発して授業に出なくなるなど)。ただ一部の優秀な学生は、新しい価値観も渡部直己の受け売りに過ぎないと気づき、あらためて自分の文学観を確立しようと努力していく。そうやって巣立っていった渡部門下は少なくないはずだ。
 実際、今私は大学で文学を教えているが、渡部流の授業はできないし、する気もない。学生が誰それが好きだと言ったら、とりあえず受け止め、可能なら「おもしろいよね」などと肯定する。もしゼミの学生が、「アイドルで論文書きたいのですが」と言ってきたら、自分はアイドルのことをまったく知らないので再考して欲しいというだろうが、「アイドルなんて下らない」とはまず言わない。そんなことでへそを曲げられても面倒だし、人文学の現場では、すべての興味・嗜好は等価である、という漠然とした認識が共有されている(内心ではまったくそう思っていないのに)。
 だが、本当にそれでいいのだろうか。教育には必ずショックを与えてそれまでの考えを打ち壊し、力ずくで別の地平に目を向けさせる、そういう局面が伴うのではないだろうか。
 渡部直己のスタイルはまさにそのようなものであり、それも高飛車な「俺が教えてやる」というものだった。それは効果的でもあったのだ。効果があったのは、偉そうなだけではなく、人一倍情熱的な教師だったからである。
 渡部直己は学生に入れ込む教師だった。(過去形なのは、私がよく知っているのが、二十年前の近畿大時代の彼だからだ)。これぞ、と思った学生にのめり込み、時間を割き、力を伸ばすために努力を惜しまない。そういう教師だった。そもそも学生と一緒にいるのが好きだった。私たち大学院生は、毎週のように彼と飲みに行き、カラオケに付き合わされ、時には野球で汗を流した。今、そういうタイプの教員がどれほどいるだろうか。
 私などは、教師として学生とは一定の距離をおきたいと思ってしまう方なのだが、彼はそうではなかった。当時遅くまで飲んだ後、一緒にマンションまで行き、ギターの腕前を披露されたのを覚えている。愛すべきしょうもないおっちゃんなのである。
 もっともそれだっていいことばかりではない。すべての学生に平等に入れ込むことはできないから、どうしたって「お気に入り」ができる。嫉妬や羨望が生まれもする。逆に過剰すぎる期待をプレッシャーに感じることもありうる。むしろのびのび学生の自主性に任せるべきだ、という考え方もある。
 ただ、今回の事件を見るにつけ、渡部直己の持っていたマッチョイズム、そして過剰な思い入れが背景になっていることはわかる。「才能を感じると、目の前にいるのが学生であることを忘れてしまう」などというのは、文章だけ見たら失笑ものだが、主観的にはきっと本心なのだろう。渡部直己が学生の才能や資質に惚れ込み、夢中になってしまう教師であるのはよく知っている。「おれの女になれ」というパワーのありすぎる言葉も、いかにも直己イズムである(本当に言ったのかどうかはともかく)。
 もちろん、だから許されるということではない。学生への愛情に性的関心が忍び込んではならないのだ。人間だからそういうこともあるだろうが、そこは意地でも、否認し、抑圧しなければならない。それが教師である。その辺の認識が薄かった。いや、甘えていたのだろうか。

 私たち大学院生は、本人のいないところでは彼を直己ちゃんと呼んで、その振る舞いをよく話題にしていた。「直己ちゃんがこんなことしたよ(笑)」「あんなこと言ったらしいよ(笑)」という具合である。私はうっかり本人の前で直己ちゃんと言ってしまい、「流石に俺の前では慎め」と叱られたことがある。それくらい、彼のマッチョぶりは周知のネタであり、冗談の種だった。本人もそのことはよく自覚しており、だから、親しい学生のあいだでは、「俺様」として振舞っても許されると思っていたのかもしれない。
 授業は素晴らしく刺激的だった。論文などの指導も丁寧だったと思う。約束の面談時間に現れない学生というのがいるものだが、妻は「今日もまたすっぽかされちゃったよ」と嘆いていた彼の姿を今でも覚えている。
 自分と異なる学生の価値観を一旦叩き壊すというスタイルだったため、嫌悪感や反発を抱いているものも多いだろうが、一度波長さえ合えば、とてもいい教師だった。批判や議論がオープンにできる雰囲気があり、軽口の応酬も日常だった。その学生との距離の近さを勘違いしてしまったのではないか。
 ネットでは、余罪があるのではないかとも囁かれている。なんとも言えないが、マッチョイズムと過剰な思い入れという構造的要因がある以上、似たような事例、もっと悪いケースがあっても少しも驚かない。そのようなことがないよう願うばかりである。もしかしたら、この文章も渡部直己にあまりに甘すぎたということになるのかもしれない。
 しかし、それにしても残念すぎる。渡部先生には晩節を汚してほしくなかった。渡部直己のもとで学んだ日々を誇らしい記憶として持っていたかった。
 被害者の方が心の傷から快復できる日を祈っています。
 今はただひたすらに悲しい。



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とりあえず、アップした。整形ができていない。あすの仕事にしたい。
by龍隆2,018.6.22



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