よしもとばななの小説「白河夜船」が、
なんと発表から26年となる今年、映画化され公開が始まっていることを知った。
⇒公式サイト
もともとこの人の小説はすごく映画作品に向いてそうな内容が多いけれど、
まさかこんな年数が経ってからとは。
「白河夜船」は好きだったので内容紹介の動画を観てみたら、やはりというか何というか
ばっちりドストライクな雰囲気だった。
この人の小説に衝撃を受け、友人と回し読みしていたのは中学生の頃だったけれど、
そういう嗜好というのは思春期くらいから変わらないものなのだな、と思う。
当時は、村上春樹だとか山田詠美だとか、漫画家だと岡崎京子だとか、
そういう多感なお年頃だと大いに影響を受けてしまいそうな作家に夢中になった時期で、
中でもこの人はダントツに「近しい」感覚を抱かせる話を書く人だった。
最近はめっきり新作をチェックしなくなってしまったけれど、今のものを読んでもそう感じるだろうか。
彼女の持ち込んだ「ものすごく普通の感覚でありながら非日常」な小説は、中学生の私の脳天を直撃した。
まず、こんなにくだけた等身大の言葉で話が語られるのにも驚いたし、
そんなお気楽な口調なのに、恋やそれに伴う肉体関係や人の死やそれに伴う慟哭・苦しみなんかを
シンプルに、でも生々しく書くのにも衝撃を受けた。
ちょっと大人になった自分の日記を先取りで読んでいる気がしたものだ。
恐らく、多くの若い女性がそう感じたからこそ、ブームとなるまでヒットしたのだと思う。
私が彼女の作品でもっとも好きなところはその「切なさ」だ。
私にとって「切なさ」は他のどんな感情にも勝る。
身を焼く怒りとか、身を引き裂かんばかりの哀しみとか、そんなものよりもずっと胸にくる。
この人は、そんな切なさを透明感のある空気の中に放り込んで書ける人だと、個人的には思っている。
今回、映画化された小説は「夜」や「眠り」が重要なキーワードになっている。
読んだ当時はぼんやりと受け止めていたそれらは、実際に自分が恋人と過ごす夜を経験してから
一気にとてもリアルなものと感じられる描写となった。
「恋人のそばにいる夜」というのは、確かに特別なものだ。
あの、時間が弾力のある何かのように延ばされていくような感覚。
夜の闇は真っ暗じゃなく仄かに明るくて、それは月の光とか蛍光する消された灯りだったり街灯だったりするけど、
目を凝らすとぼんやり顔が見えるくらいの暗さで、恋人は眠っていたり不意に目を開けていたりする、あの感じ。
いつもならとうに眠っている時間帯、それがまるで自分たちしかいない時間の狭間みたいに思える。
外からは車の音なんかが聞こえてくるのに、不意にしんとする一瞬、まるで世界中に自分たちだけしかいないみたいに思う。
隣にはあたたかい体があって寄り添えるのに、一人で起きていると猛烈な孤独を感じるあの時間。
それらはきっと「恋人」ならではだ。
夫となった男性とは、心情や状況が同じであってもあの奇妙な感覚にはならなかった。
不思議なものだ。
「白河夜船」という作品を思い出すとき、そんな感覚も一緒に思い出す。
もう遠くなってしまったけれど、確かに何回もそういう夜を越えたことなんかを。
朝になるとそういう感傷めいたものなど霧散して、朝日は容赦ない強さで色々なものをあからさまにする。
その無慈悲さもまた、何となく懐かしい。
今、私がこの人の本で一番すきなのは「体は全部知っている」という短編集だ。
さらっとした文体で淡々と書かれているようだけれど、本当に切ない。
話の内容はぜんぶ覚えているのに、読むたびに泣いてしまう。
十ほど年が離れているので同年代ではないが、作家と共に大人になり年を重ねていくって不思議なものだ。
彼女の若い頃のみずみずしい感覚も、大人になってからの物事を清濁併せ呑んだ優しい書きぶりも、
どちらも自分のことのように近しく思う。
久しぶりにまた作品を読み返したくなった、そんな映画化のニュースであった。
あれ、長々とポエマっただけで、映画の内容にぜんぜん触れてないネ!