10歳の時から日記を書き続けている私は、過去に自分がなにを考え、どのように行動してきたかを、その当時の日記を見ることで、ある程度は正確に確認することができます。
昔の日記を読み返すことは滅多にないのですが、たまに懐かしさを覚え読み返してみると、記憶していたことと違うことや、今の自分の感覚からすると考えられないような考えや行動を取っている過去の自分に驚かされます。
漠然と、10代20代頃の自分って、こんなだったよなーって、思い出してみる分には、あまり違和感はないものの、日記などの具体的な記録によって見てみると、もはや自分じゃないような感じもしてくるのです。
幼少時の自分の写真や、赤ちゃんの頃の自分の写真も、これは自分だ、と思って普通に懐かしい目で見てしまうけれど、「これはもうあなたであってあなたではないですよ」と、言われてしまえば、そんな感じもしてきます。
肉体部分を構成する細胞は再生を繰り返しているため消滅はしないものの、昔の自分を形作っていた細胞は、とっくになくなっているわけですから、人は生きながらにして何度も生まれ変わっているようなもの、という捉え方もできるのではないでしょうか。
なぜこんな考えをしてみたくなったかと言えば、前世というものを、もっと当たり前のものとして感じ取ってみたいと思ったからです。
前世というものがあるならば
それは自分が物心つく以前の幼少期と ある意味同じような存在として捉えてもいいんじゃないかと思ってみました。
私が断片的に思い出せる記憶は、たぶん3歳頃がギリギリで、それ以前の記憶はなく、記憶はないものの その頃の写真は存在しているので「なるほど。これが自分なんだな」と認識できます。
このように、自身の中に記憶はないけれど、目に見える形で記録を示されることにより、自分であることが認識できるということは、
もしもこの世に信頼できる前世の記録データというものが個々に存在していたとしたら、人は前世があったことを当然のように受け入れていたんじゃないかなぁ。。