チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「『KAGUYAMA』亡き子と持統天皇には勝てぬ(高市皇子)/菟田のかがり火(02)」

2011年01月10日 02時10分57秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
万葉集0048の柿本人麻呂の歌は、
[東野炎立所見而反見為者月西渡]
とういように略体歌(=古体歌、助動詞や助詞を完全補填しない表記の歌)
なので、さまざまな読み下しが研究・推測されることになる。
万葉集の中には、平安時代初期にすでにもう
本来の読みかたが判らなくなってしまった歌があるらしい。

20世紀にはそんなことは起こらない。
♪ウーサーギー、追ーいし、香具山ぁーーー♪
とは、高野辰之は詠んでないことは自明である。ともあれ、
香久山は持統女帝が遷都した藤原京の東端にある。ちなみに、
耳成山は北端に、畝傍山は西端にある。

[中大兄近江宮御宇天皇三山歌](万葉集巻1-0013乃至0015)
[高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎
神代従 如此 尓有良之
古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉]
(かぐやまは、うねびををしと、みみなしと、あひあらそひき。
かむよより、かくにあるらし。
いにしへも、しかにあれこそ、うつせみも、つまを、あらそふらしき)
「(拙大意)香具山は畝傍山を雄々しいわと、耳成山と互いに争った。
神代よりこうであるらしい。
はるか昔もそのようであるらしいからこそ、現世でも相方を争うらしいと」
(*"しかにあれこそ"の"こそ"の係り結びで終いの"あらそひき"の"き"は
上代流の連体形である。**"嬬乎"="つまを"は甚だしい字足らず)
[反歌](0014)
[高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良]
(かぐやまと、みみなしやまと、あひしとき、たちてみにこし、いなみくにはら)
「(拙大意)香具山と耳成山とが争ったとき、
裁定しに来た播磨国印南郡の平野(現在の加古川市から明石市あたり)」
(「播磨国風土記」に出雲の阿菩大神(あぼのおほかみ)が裁定に立とうとした、
と記されてる。そして、同地まで到達したときに諍いが収まったという)
[反歌](0015)
[渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽]
(わたつみの、とよはたくもに、いりひさし、こよひのつくよ、さやけくありこそ)
「(拙大意)海の旗がたなびくような雲に、夕日が照って、
今宵月夜は、明るくあってほしいものだ」
[右一首歌 今案不似反歌也 但舊本以此歌載於反歌 故今猶載此次 亦紀曰
天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子]
(みぎ一首のうた、いまかむがふるに反歌ににず。
ただし、舊本(くほん)このうたをもちて反歌にのす。
ゆゑにいまなほこのつぎにのす。また紀に曰はく、
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
さきの四年乙巳に天皇をたてて皇太子となす)
「(拙大意)右の一首は、今考えると反歌に似つかわしくない。
ただし、もとの本がこの歌を以て反歌に載せてる。
だから、今もやはりこの歌をこの次に載せてるのである。また、日本書紀には、
(重祚した斉明時ではなく最初の)皇極女帝の代の4年め(乙巳の年)の
乙巳の変の直後に皇極天皇は退位して中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。が、
中大兄皇子は女帝の同母弟を推した。
同母弟は三度辞退して古人大兄皇子を推挙した。が、
古人大兄皇子は固辞して出家してしまった。そこでやっと、
女帝は同母弟を即位させて孝徳天皇とし、中大兄皇子はその皇太子になった)

この一連の歌は意味深である。そして、のちの
「持統女帝-高市皇子-軽皇子」
という「三山関係」がそっくりあてはまってしまうのである。ちなみに、
上記の「皇極女帝の同母弟」の諱は「軽」、つまり、同人も
「軽皇子」だったのである。ついでに、
持統天皇は天智天皇の娘で、その天智の弟天武天皇の后。
天武と別の女性との子が高市皇子。天武との間の実子が草壁皇子。
亡き草壁皇子の子が軽皇子(のちの文武天皇)。
という親族関係である。
持統女帝は血が繋がってる孫の軽皇子に天皇を継がせたかった。が、
高市皇子がいる以上は軽皇子立太子事案を話題にすることも憚られた。
草壁皇子が亡くなって3年後に行われたのが、
軽皇子による「菟田(ウダ)の阿騎野(アキノ)の冬の狩」である。

[万葉集巻1-0028]
[藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇]
(ふぢはらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ、
たかまのはらひろのひめのすめらみこと、がんねんていがい11年、
くらゐをかるのひつぎのみこにゆづりたまひ、
そんがうをおほはきすめらみことといふ)
「(拙大意)藤原京でお治めなさっていた持統天皇は、
元年が丁亥の年である持統11年に天皇の位を軽太子に譲りなさって、
太上天皇という尊号になられた」
[天皇御製歌]
[春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山]
(はるすぎて、なつきたるらし。しろたへの、ころもほしたり。あめのかぐやま)
「(拙大意)春が過ぎて、夏が来たらしい。
コウゾの木の繊維で織った白い着物がほしてある。
ここから東に見える天の香久山に」

もとより、「天の」という冠がつくくらいで、
香久山は天から降りてきたとされる聖なる山である。そして、
香久山には「甘檮明神(あまかしみょうじん)」という神がいて、
衣を神水に濡らしてからほしてして、
その乾き具合で人の言葉の真偽を量った、という。
香久山の南方2kmほどのところ(橿原市豊浦)に、
甘樫丘はある。
Kaguyamaの歌を残した女帝持統天皇は、
初めて「火葬」にふされた大王・天皇である。ちなみに、
記紀における火の神は迦具土神、
Kagutsuchi-no-kamiである。

さて、
上記「春過ぎて」の歌を詠ったと思われる持統11年の前年、
持統天皇10年(およそ、西暦696年)7月10日に、
息子の即位の邪魔だった高市皇子は亡くなった。当時は、
藤原宮と香具山の間の埴安(はにやす)という地には
池があり、香具山の西の麓には高市皇子の御殿があったのである。
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