チャイコフスキー 1812年
"イマワ"むかし、
マニフェストなる美名の空手形にて愚民を謀り政権をとり
日本国の足を引っ張りにひっぱりし蛸政党ありけり。
その反日政党に選挙にて負けし政党が総裁の母校大学空手部にて、
主将なむ傷害致死の疑いにて逮捕されける。
師走朔日がことなり。
同部OBとふ山梨県上野原市なる個人タクシー運転業が77歳、
先輩づらふかせけるが稽古のオブザーヴァーとて来たりて
部員を大いに困らせてけり。
現在6人の同部では部員減少による廃部を危惧して、
<目的に合わせて練習ができます>
<練習は2時間と短いです>
<勉強やアルバイトに支障をきたすことなく練習ができます>
などどいうキャッチを謳って部員拡充に努めてたという。さらに、
危険性を伴わない「寸止め」を重要視していたという。ところが、
77歳OBは「当身(実際に打突すること)」でやれとしつこく要求し、
寸止めで稽古してるところを中断させて主将に高圧的に迫った。
77歳OBは主将にビンタをしたらしい。師範でもない
ただの迷惑人である者が非礼にも暴力行為をはたらいたのだが、
主将はついに77歳OBの強要に屈し、では「当身」でと、
右足回し蹴りを寸止めではなく、
77歳OBの左顔面に食らわしてやったということである。ところが、
77歳OBは口ほどにもなくざまなく昏倒し、
2時間後に頭蓋内損傷で死亡した、というのがあらましなようである。
KARATEとKARAOKEを瞬時には見分けることができず、
ナポレオンと早野凡平の顔をしばしば区別できない拙脳なる私には、
ロシア語を恥じて宮廷でフランス語を使ってたロシアがなぜ、
ナポレオン軍に素直に屈しないで抵抗したのか未だに不思議である(※)。
今から200年前の1812年6月にいわゆるネマン川を渡って
ロシア領内に侵入を開始したラ・グロン・ダルメ(ナポレオン軍)は、
9月にいわゆるモスクワに進軍、制圧した。が、
ロシア軍の焦土作戦におめおめとひっかかったナポレオンは、
にっちもさっちもいかなくなった。ついに、
10月19日にモスクワからの退却を開始した。
当初60万だった兵がこのときには10万になってた。
ロシア軍のいわゆるクトゥーゾフは敗走撃ちにかかり、かつ、
退路の選択肢を失わせたのである。ナポレオン軍にとっては
もちろんヘイタンな道ではない。飼葉が底をつき馬が死んでった。
死馬がわずかばかりの食糧となった。
死んだ兵の腿肉も同様だったらしい。
飢えと凍えで脱走兵が相次いだ。が、
ロシアの農民に捕まって殺されてった。
ヴィャージマでロシア軍に滅多討ちにされたナポレオンは、
11月3日、無責任にも軍を現地解散として、
ただひたすら逃げ帰ることに専念した。
ほうほうのていのナポレオン軍が
11月14日に氷点下25度のいわゆるスモレンスクに達したときには、
兵数は3万強になってた。それから待機軍と合流したものの、
11月28日のいわゆるベレジナ川渡河では、あらかじめ
橋を落とされてたので、ナポレオン軍の工兵らは
仮橋を架けながら凍え死んでった。川を渡れたのは
合流軍も含めて半分の2万強だけだった。
現在のベラルーシのミンスクに達した12月5日にナポレオンは
新たに徴兵を行って軍を再編するために自分だけ
トロイカ橇で先に逃げ帰り、将兵を置き去りにした。
大将というものはそうやってでも生き残ルシカないものだが、
軍を任された義弟のミュラも軍を捨てて逃げた。
大将らに見捨てられた軍が現在のリトアニアの
いわゆるヴィリニュスに到達したとき、
兵数は8千となってた。ちなみに、
敗走兵の中でこの町に留まって現地人と結婚したのが、
いわゆるロシア五人組のキュイの父親である。途中また
待機軍が加わった1万のナポレオン軍が、
ロシア領からポーランド領となって
ロシア軍がおいそれとは手出しできなくなる
いわゆるネマン川を渡り終えたのが12月14日である。
チャイコフスキーの「1812年」は、
この戦勝記念と戦没者慰霊のために
ツァーリ・アレクサンドル1世が建立を勅裁した
「救世主ハリストス大聖堂」の奉献式にあたって演奏されるべく
ニコライ・ルビンシテインを通じて依嘱されたものである。
曲は、
A=ラルゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B=アンダーンテ、4/4、3♭、「進軍ラッパ」
C=アッレーグロ・ジュストのソナータ、4/4、6♭
第1主題
推移部挿入=「ラ・マルセイエーズ」
第2主題=破棄したオペラ「地方長官」の二重唱
第3主題=ロシア民謡「門の前で」
A´=ラルゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B´=アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、4/4、3♭、
「進軍ラッパ」「ロシア帝国国家」
という大がかりな構成になってる。このエントリはその
B´の箇所、大団円である。
強弱記号は「ffff」となり、
ロシア軍の「進軍ラッパ」があらんかぎりの音で奏される。
[Allegro vivace、4/4拍子、3♭(変ホ長調)]
♪(ドー>)ソッソッ・<ドー<レー・・<ミー>レー・>ドー<レー│
<ミー●●・>ドー●●・・ドーーー・ーーーー│
>●●ソッソッ・<ドー<レー・・<ミー>レー・>ドー<レー│
<ミー●●・>ドー●●・・ドーーー・ーーーー│
>●●ラッラッ・<レー<ミー・・<レー>ラー・>ファー<ラー│
<レー>ラー・>ファー<ラー・・<レーーー・ーーーー│
>●●ソッソッ・<ドー<レー・・>ドー>ソー・>ミー<ソー│
<ドー>ソー・>ミー<ソー・・<ドーーー・ーーーー♪
これを3拍子の
♪ソソ・<ドー・<レー│<ミ>レ・>ドー・>ソー│
<ラー・ー<ド・ド<レ│>ドー・ーー・●●♪
としてしまうと、
松本智津夫による新興仏教テロ革命を支持してた中沢新一とオトモダチの
坂本龍一が調子に乗って欽ちゃん走りでルート5を進軍してしまう。ともあれ、
小太鼓、大太鼓、シンバル、鐘、大砲、などを使い分けたチャイコフスキーの
「打楽器使いのテクニシャン」ぶりが遺憾なく発揮されてる。ただし、
右二つ巴紋の革を張った山鹿流陣太鼓が打ち鳴らされることはない。
「進軍ラッパ」の繰り返しからは
「ロシア帝国国家(ボージェ、ツァリャー・フラニー=主よ、ツァーリを護り給え」
が加えられる。
♪ソーーー・ーーーー・・ーーーー・ーーーー│
<ラーーー・ーーーー・・ラーーー・ーーーー│
>ソーーー・ーーーー・・ーーーー・>ミーーー│
>ドーーー・ーーーー・・ーーーー・ーーーー♪
(cf; 「ロシア帝国国歌『主よ、ツァーリを護り給え』」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/6993f85bd32b99cc937a305e7c12f79b)
♪ソー>♭ソー>ファー(3連符)・・>ミー>♭ミー>レー(3連符)│
>♯ドー>Nドー>シー(3連符)・・>♭シー>ラー>♭ラー(3連符)♪
という強烈な3連符半音階下降咆哮のあとの、
6小節にわたる鐘の連打が他のオケの全奏と合わさって、
(1812年はおろか1880年にもなかったものだが)戦闘機の
威圧的なエンジン音に聞こえる。
ラ・マルセイエーズやロシア帝国国歌などを使い、
大吹奏楽団や大砲まで加えたケレン味たっぷりの
低俗な音楽だったから"気が進まなかった"とはいえ、
真の低俗作曲家ではとても書けないレヴェルの音楽を
チャイコフスキーは仕上げた。機会音楽でさえ、
チャイコフスキーの手に掛かれば実に感動的なものになるのである。
変ホ長調の主音Esの2オクターヴにわたる
3段構えのユニゾンでこの壮大な曲が閉じられたときに
心動かされない者には、矢追純一が顔を出してきて、
"Merry Christmas, Mr Lawrence!"
というセリフを吐いてしまいそうな音楽モドキふぜいが似つかわしい。
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