チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー『1812年』の概要」

2009年04月13日 15時26分09秒 | 戦勝&大聖堂奉献式祝いに(イワイニ)1812年

チャイコフスキー 1812年


すでに、導入曲的に3つ、
「1812年」に関する事項を書いた。そして、
これから何度かに亘って、私なりの
「1812年」分析を書き綴ってく予定である。
本項はその概要である。ただし、
「概要」といっても、
持田香織女史と優香女史の顔の区別もおぼつかない
拙脳な私ゆえ、通常の、
楽器編成や初演年・初演指揮者、などの
どこでも調べられる事柄には言及してない。

【作曲経緯】
1880年、師ニカラーィ・ルビンシチェーィンから委嘱された、
マスクヴァーにおける博覧会開幕式のための
「祝典曲」である。そして、これには、
アレクサーンドル2世の在位25周年、
大聖堂奉献記念、
という事項も含まれてたのである。という、
「機会音楽」であるため、と
フォン=メック夫人への手紙などから、
チャイコフスキーが「しぶしぶ、いやいや」承諾した、
という認識が一般的に受け入れられてる。が、
このようなものにこそ、チャイコフスキーは
自らの作曲技術と教養とを発揮できる
絶好の「機会」と実は考えてたと私は感じる。
特に、2つの「国歌」の引用は
一般向けにきわめて解かり易く、
時代考証という粗さがしが
とるに足らないほど「効果的」で、事実、
ロシア帝国国家を後年ソ連がグリーンカの作品にすり替えた部分は、
まったくつまらない音楽になってしまった。また、
詳しくは後述するが、破棄したオペラ
「ヴォエヴォーダ(地方長官)」の、
捨てきれなかった貴重なデュエットを
この作品に流用した、ということは、
かなり「力を注ぎこんだ」という証左である。

ところで、
この作品の目的のひとつだった
「アレクサーンドル2世在位25周年」が、その
暗殺によってもともこもなくなり、
委嘱者だったルビンシチェーィンも嘘つかなくても
ハリセンボン飲まされたことで
雨の朝巴里に死してしまったために、
1881年に予定されてた初演は、翌年に順延になった。

【作品の素材と形式】
A=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B=アンダーンテ、4/4、3♭、「進軍ラッパ」
C=アッレーグロ・ジュストのソナータ、4/4、6♭
 第1主題
 推移部挿入=「ラ・マルセイエーズ」
 第2主題=破棄したオペラ「地方長官」の二重唱
 第3主題=ロシア民謡「門の前で」
A´=ラールゴ、3/4、3♭、「ロシア正教聖歌」
B´=アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、4/4、3♭、
   「進軍ラッパ」「ロシア帝国国家」

Cという「ソナータ」を内包した、そのC部を展開部と置き換えた
AとBによるソナータ、というスキャンもできる。
曲はフラット3つという調性を主調とし、
ABCという3つの要素から構成し、その中のCのソナータでも、
第3主題まで設けてる、という
「3づくし」な「至聖三者」な、
ロシア正教=ツァーリ祝典曲である。ちなみに、
「1812」という数字自体も、3で割り切れる。

ちなみに、Cの第2主題を、
どこかの安価なデタラメ解説本を
聞きかじり見かじって、
ボロヂーノの農民の民謡などと噴かすむきがよくあるが、
まったくのホラであり、チャイコフスキーのオリジナルな節である。
また、冒頭の「聖歌」の引用を、
聖歌だから「合唱」でなければならない、
などというトンデモない輩もいる。当然、
ウソである。むしろ、
聖なるものとして人間の声以外の、
楽器などの使用を禁忌とした正教の聖歌を、
合唱で歌わせ、途中から「楽器」を加える、
などというあざとい「演出」による演奏は、
反対に「ロシア正教」を冒涜するものである。
変な浅知恵など弄せず、
チャイコフスキーが書いたように、
弦のソリで演奏すればいいのである。

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