今日の「ガリレオ」のイケメンオヤジ福山雅治は、ロッスィーニの
「イル・バルビエーレ・ディ・スィヴィーリャ(セビージャの理髪師)」の
「おいらは町の何でも屋でぃ」を聴いてたが、
「それでも太陽はまわってる」と主張するキモメンおっさんの私は、
年末になると、巷の風潮と同調して、
バレエ「くるみ割り人形」のDVD(マクシーモヴァ)と
「ダイアグノウスィス・マーダー(邦題:Dr.マーク・スローン)」
のDVDを観てしまうどころか、クリスマスが近づくと、
キリスト教徒でもないのに、煙突掃除を
スロウン医師にお願いしたくなってしまう。
♪チムチムニー、チムチムニー、チムチムッ、チェリー♪
私は辺見エミリ女史もキムニーも特段好きではないし
キムチが苦手だが、この歌は「私のお気に入り」ではある。ただし、
JR東海のCM音楽と区別がつかない愚脳である。いっぽう、
J.R.リチャードといえば、毎スィーズン
必ず1、2本は本塁打を放ったヒューストンの
100マイル黒人ピッチャーだったが、この拙脳には、
エディ・マーフィ版ナッティ・プロフェッサーと見分けがつかない。
また、キリスト画で知られる、フランドルから英国に移籍した画家、
を思い出す。が、そのイケメンを活かした自画像は、愚脳な私には、
「ヘドウィグ・アンド・ディ・アングリーインチ」を舞台でやってる
日本人俳優山本耕史と区別がつかない。ちなみに、私のは
「ヘドガデル・アンド・ディ・アグリー・5.7・インチキーズ」
というようなシロモノである。ちなみに、
マーク・スロウン役の米俳優は両手利きらしいが、
私も両手使いである(が、アチラは両刀遣いではない)。
テニスはバックハンドストロウクが苦手で、
右サイドに来たボールは右手フォアハンドで、
左サイドに来たボールは左手フォアハンドで、
それぞれ打ち返すのが楽である。左右を間違えることはないが、
ときどき、靴下の左右が瞬時にはわからないことがある
(靴下は柄によって左足用と右足用を厳密に区別して履いてる)。
それらはともかく、東京の11月乃至12月には
独特の年の瀬感がある。年末だからと「ベト9」をやるのは
日本だけなのだそうだが、少なくとも
東京の年末によく似合うのである。さて、
有名な「歓喜の主題」は、終章、器楽でまず4たび呈示される。
そのうち、3度めの呈示では、
2度めの呈示時にファゴットが奏したオッブリガートを
ヴィオーラとチェロの完全ユニゾンが弾き、
2番ファゴットとコントラバスがそれを補い、
vnセコンドが別のオッブリガートを弾く、
というごちゃついた「その他」の中を、
vnプリーモのみが旋律を任されてるのである。
1952年のトスカニーニ&NBC響の演奏録音は
「私のお気に入り」である。
「dolce」と規定された
*♪ミー・ーー・・<ファー・<ソー│
ソー・>ファー・・>ミー・>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
ミー・ー>レ・・レー・ーー│
ミー・ーー・・<ファー・<ソー│
ソー・>ファー・・>ミー・>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│
<レーーー・・<ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>レー│
(クレッシェンド)>ドー<レー・・>ソー、
<ミー│(p)ーー、ミー・・<ファー<ソー│
ソー>ファー・・>ミー>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│
(クレッシェンド)<レーーー・・<ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>レー│
>ドー<レー・・>ソー、
<ミー│ーー、ミー・・<ファー<ソー│
ソー>ファー・・>ミー>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│*♪
を弓弾くのである。この主題が、
**♪ミ<ファ│<ソ>ファ>ミ>レ・
>ド●<レ●│>ソーーー・ーー**♪
という「モツ39」終章主主題からインスパイアされたもの、
であることはすでに述べたが、ここには
「せわしさ」がありあまってるのである。晩年の
モーツァルトの音楽に顕著なのは「焦燥感」である。
ベートーフェンしかり、シューベルトしかり、
ブルックナーしかり、チャイコフスキーしかり。
ちょっと前の「題名のない音楽会」でピアニストの
中村紘子女史が言った言葉で私は同女史を見直した。
「ラフマニノフはいつも焦ってるの」
ここに気づく者は案外少ない。ラフマニノフ・クラスでさえ
焦ってたのである。原発不明癌がリンパ節転移して、
(おそらくマルファン症候群が痛みを増幅させてた)
全身癌の痛みに苦しんでたからだけではない。
「真の作曲家」はすべて「焦ってる」のである。だから、
「時間芸術」に導かれた、のである。生物的に
遺伝子を伝えれないから「音楽という遺伝子の代替物」を
遺さねばならない使命感に押されてるからである。
ベートホーフェンの「歓喜の歌」は、
低音、中音、と2度奏されたのち、3度めには、
ソプラーノの音域で呈示される。すなわち、
下手のvnのみで「p」で始められるのである。
この「微妙で」「繊細な」箇所を、
1952年の演奏録音のトスカニーニ&NBC響は、
「本物」をわかる者だけが体験できるあの「状態」を
じつに感動的に再生してる。細長い美しい指が
白いきめ細かい肌を繊細に愛撫するような、はたまた、
ボウイング747を絶妙に離陸(lyric)させたような、
「ひとすじの『光明』が現れた」ような、
こうごうしい美しさと悲しみを湛えてるのである。
暖房をついついいれすぎてしまう冬は
「換気」に気を配ることが大事である。そして、
「焦燥」感のない、ただ美しいだけの音楽は
一級品でないのである。とまぁ、
『しょうむ』ない(大阪言葉でショウモナイ)話で恐縮である。
「イル・バルビエーレ・ディ・スィヴィーリャ(セビージャの理髪師)」の
「おいらは町の何でも屋でぃ」を聴いてたが、
「それでも太陽はまわってる」と主張するキモメンおっさんの私は、
年末になると、巷の風潮と同調して、
バレエ「くるみ割り人形」のDVD(マクシーモヴァ)と
「ダイアグノウスィス・マーダー(邦題:Dr.マーク・スローン)」
のDVDを観てしまうどころか、クリスマスが近づくと、
キリスト教徒でもないのに、煙突掃除を
スロウン医師にお願いしたくなってしまう。
♪チムチムニー、チムチムニー、チムチムッ、チェリー♪
私は辺見エミリ女史もキムニーも特段好きではないし
キムチが苦手だが、この歌は「私のお気に入り」ではある。ただし、
JR東海のCM音楽と区別がつかない愚脳である。いっぽう、
J.R.リチャードといえば、毎スィーズン
必ず1、2本は本塁打を放ったヒューストンの
100マイル黒人ピッチャーだったが、この拙脳には、
エディ・マーフィ版ナッティ・プロフェッサーと見分けがつかない。
また、キリスト画で知られる、フランドルから英国に移籍した画家、
を思い出す。が、そのイケメンを活かした自画像は、愚脳な私には、
「ヘドウィグ・アンド・ディ・アングリーインチ」を舞台でやってる
日本人俳優山本耕史と区別がつかない。ちなみに、私のは
「ヘドガデル・アンド・ディ・アグリー・5.7・インチキーズ」
というようなシロモノである。ちなみに、
マーク・スロウン役の米俳優は両手利きらしいが、
私も両手使いである(が、アチラは両刀遣いではない)。
テニスはバックハンドストロウクが苦手で、
右サイドに来たボールは右手フォアハンドで、
左サイドに来たボールは左手フォアハンドで、
それぞれ打ち返すのが楽である。左右を間違えることはないが、
ときどき、靴下の左右が瞬時にはわからないことがある
(靴下は柄によって左足用と右足用を厳密に区別して履いてる)。
それらはともかく、東京の11月乃至12月には
独特の年の瀬感がある。年末だからと「ベト9」をやるのは
日本だけなのだそうだが、少なくとも
東京の年末によく似合うのである。さて、
有名な「歓喜の主題」は、終章、器楽でまず4たび呈示される。
そのうち、3度めの呈示では、
2度めの呈示時にファゴットが奏したオッブリガートを
ヴィオーラとチェロの完全ユニゾンが弾き、
2番ファゴットとコントラバスがそれを補い、
vnセコンドが別のオッブリガートを弾く、
というごちゃついた「その他」の中を、
vnプリーモのみが旋律を任されてるのである。
1952年のトスカニーニ&NBC響の演奏録音は
「私のお気に入り」である。
「dolce」と規定された
*♪ミー・ーー・・<ファー・<ソー│
ソー・>ファー・・>ミー・>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
ミー・ー>レ・・レー・ーー│
ミー・ーー・・<ファー・<ソー│
ソー・>ファー・・>ミー・>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│
<レーーー・・<ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>ドー│
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(クレッシェンド)>ドー<レー・・>ソー、
<ミー│(p)ーー、ミー・・<ファー<ソー│
ソー>ファー・・>ミー>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│
(クレッシェンド)<レーーー・・<ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>ドー│
<レー<ミ<ファ・・>ミー>レー│
>ドー<レー・・>ソー、
<ミー│ーー、ミー・・<ファー<ソー│
ソー>ファー・・>ミー>レー│
>ドー・ーー・・<レー・<ミー│
>レー・ー>ド・・ドー・ーー│*♪
を弓弾くのである。この主題が、
**♪ミ<ファ│<ソ>ファ>ミ>レ・
>ド●<レ●│>ソーーー・ーー**♪
という「モツ39」終章主主題からインスパイアされたもの、
であることはすでに述べたが、ここには
「せわしさ」がありあまってるのである。晩年の
モーツァルトの音楽に顕著なのは「焦燥感」である。
ベートーフェンしかり、シューベルトしかり、
ブルックナーしかり、チャイコフスキーしかり。
ちょっと前の「題名のない音楽会」でピアニストの
中村紘子女史が言った言葉で私は同女史を見直した。
「ラフマニノフはいつも焦ってるの」
ここに気づく者は案外少ない。ラフマニノフ・クラスでさえ
焦ってたのである。原発不明癌がリンパ節転移して、
(おそらくマルファン症候群が痛みを増幅させてた)
全身癌の痛みに苦しんでたからだけではない。
「真の作曲家」はすべて「焦ってる」のである。だから、
「時間芸術」に導かれた、のである。生物的に
遺伝子を伝えれないから「音楽という遺伝子の代替物」を
遺さねばならない使命感に押されてるからである。
ベートホーフェンの「歓喜の歌」は、
低音、中音、と2度奏されたのち、3度めには、
ソプラーノの音域で呈示される。すなわち、
下手のvnのみで「p」で始められるのである。
この「微妙で」「繊細な」箇所を、
1952年の演奏録音のトスカニーニ&NBC響は、
「本物」をわかる者だけが体験できるあの「状態」を
じつに感動的に再生してる。細長い美しい指が
白いきめ細かい肌を繊細に愛撫するような、はたまた、
ボウイング747を絶妙に離陸(lyric)させたような、
「ひとすじの『光明』が現れた」ような、
こうごうしい美しさと悲しみを湛えてるのである。
暖房をついついいれすぎてしまう冬は
「換気」に気を配ることが大事である。そして、
「焦燥」感のない、ただ美しいだけの音楽は
一級品でないのである。とまぁ、
『しょうむ』ない(大阪言葉でショウモナイ)話で恐縮である。
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