銚子商業高が勝って、あの短く潔い校歌が流れた。
同校OBといえば、オデコでフライを捕球する技術に長けた
元中日ドラゴンズの本塁打王宇野選手がまっさきに思い浮かぶ。
宇野、といえば「おはん」が代表作である故宇野千代女史を連想する。
千代に八千代に、とまではいかなかったが、98歳6月を生きた。ときに、
短くて潔い、といえば、57577という和歌を歌詞としてる「君が代」もそうである。
さて、今日8月12日は「君が代記念日」なんだそうである。
1893年8月12日、文部省の「小学校祝祭日大祭儀式規定」が公布され、
「君が代」は「一月一日」「紀元節」などとともに唱歌として定められたとか。
師ニコライ・ルービンシテインの死から12年後、チャイコフスキーが
「悲愴交響曲」のオーケストレイションを仕上げるころのことである。
ときに、師ルービンシテインと弟子チャイコフスキーといえば、
「出藍の誉」という言葉があてはまる。藍といえば徳島である。
今日8月12日から徳島の阿波踊りが始まる。この踊りの起源の諸説のひとつに、
「兵農分離政策」の一環、というものがあるらしい。天正年間、
「四国平定」のおりに功績があった腹心蜂須賀小六正勝に
秀吉が阿波一国を与えようとした。が、小六は高齢を理由に固辞し、
倅の家政が代わって封ぜられる。ところが、
阿波に限らず四国は以前からの郷士が多い土地である。
蜂須賀の殿様は公務(comb)で忙しかったわけではないが、
検地や兵農分離は思うようにはかどらない。そこで、民の歓心をかおうと、
家政は天正15年(ほぼ1587年)、城内を開放し、踊りをおどらせた。すると、
(この城はあんがい始皇帝の巨大な宮殿「阿房宮」みたいではないじゃないか)
と民は思った(ここらへん、私のトンデモ説)。そう鳴門、人心は蜂須賀の殿に向かい、
「えらやっちゃ、えらやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ!
踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損ソン!」
となってうまくいったそうである。それはともかく、
そのあと、いろいろとあるのだが、関ヶ原の功で家政の倅至鎮が再封され、
幕末まで続くのである。ちなみに、1616年の大阪の陣で敗走した土佐の
長宗我部盛親を見つけて捕らえたのは蜂須賀軍の手の者である。ともあれ、
阿波踊りはもはや徳島名物であるばかりか、全国的な夏の踊りに広がってる。
あの「ぞめき囃子」の節と律動は、聴くものを高揚させる要素を備えてるのである。
♪【ラー<シ・<ドー>シ】|>【ラー<シ・<ドー>シ】|>【ラー<シ・<ドー>シ】|
>【ラー<シ・<ドー>シ】|>ラー<シ>ラ>・ファーー|
<ラー<シ>ラ>・ファー>ミ|<ラー<シ・<ドーー♪
チャイコフスキーがその集大成で用いた【365歩のマーチ指向動機】
=【3度上って2度下がる】という【「悲愴」の主要主題の動機】が、とめどなく流れる。
阿波踊り「ぞめき囃子」
→大バッハ「マタイ受難曲」:
♪【ラーー・ー<シ<ド・>【【シーー・ー】<♯ド<レ|>♯ド】】>シ>ラ♪
→モーツァルト「レクィエム」:
♪○○ラーーラ>♯ソ♯ソ|<【ラー<シー<ドー>シー】♪
→ベートーフェン「8番pf(悲愴)ソナタ」:
♪【ラーーー・ーーーー・ーーラー・<シーー<ド
・ドーーー・ーーーー>シーーー・ーーーー】♪
同「5番(運命)交響曲」:
♪【ソー<ラー|<♭シー>ラー】|>ソー<ラー|>ソー>ファー♪
同「9番交響曲」:
♪ミーーー・<ファー<ソー|ソー>ファー・>ミー>レー|
>【ドーーー・<レー<ミー|ミーー>レ・レーーー】♪
→シューベルト「(未完成)交響曲」:
♪ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|<ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|
<【ドーーーーー|<レー<♭ミーー>レ】|>ドー>シーーー|<ドー♪
♪ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|<ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|
>【(N)ソー<ラーー<♭シ|♭シー>ラーー】<ド|ドー>シー♪
→ブルックナー「7番交響曲」:
♪【ラ<シ<ドッ>シッ】|【ラ<シ<ドッ>シッ】♪
→チャイコフスキー「6番交響曲」:
♪【ラ<シ|<ドー>シーーー】
同「スペードの女王」:
♪【ド<レーー<ミ|ミーー>レ・レーーー】♪
同「ハシバミ割り人形」
♪【ドー<レー<ミー|>レーーーーー】♪
→マーラー「5番交響曲」:
♪ミ<ファ<ソ|ソ>ララー・ー<
【ソ<ラ<シ|>ラーーー・ー】【ラ<シ<ド|ド>>シシー・ー】♪
という「ただ知るもののみだけ」に伝播してく「連」なのである。
同校OBといえば、オデコでフライを捕球する技術に長けた
元中日ドラゴンズの本塁打王宇野選手がまっさきに思い浮かぶ。
宇野、といえば「おはん」が代表作である故宇野千代女史を連想する。
千代に八千代に、とまではいかなかったが、98歳6月を生きた。ときに、
短くて潔い、といえば、57577という和歌を歌詞としてる「君が代」もそうである。
さて、今日8月12日は「君が代記念日」なんだそうである。
1893年8月12日、文部省の「小学校祝祭日大祭儀式規定」が公布され、
「君が代」は「一月一日」「紀元節」などとともに唱歌として定められたとか。
師ニコライ・ルービンシテインの死から12年後、チャイコフスキーが
「悲愴交響曲」のオーケストレイションを仕上げるころのことである。
ときに、師ルービンシテインと弟子チャイコフスキーといえば、
「出藍の誉」という言葉があてはまる。藍といえば徳島である。
今日8月12日から徳島の阿波踊りが始まる。この踊りの起源の諸説のひとつに、
「兵農分離政策」の一環、というものがあるらしい。天正年間、
「四国平定」のおりに功績があった腹心蜂須賀小六正勝に
秀吉が阿波一国を与えようとした。が、小六は高齢を理由に固辞し、
倅の家政が代わって封ぜられる。ところが、
阿波に限らず四国は以前からの郷士が多い土地である。
蜂須賀の殿様は公務(comb)で忙しかったわけではないが、
検地や兵農分離は思うようにはかどらない。そこで、民の歓心をかおうと、
家政は天正15年(ほぼ1587年)、城内を開放し、踊りをおどらせた。すると、
(この城はあんがい始皇帝の巨大な宮殿「阿房宮」みたいではないじゃないか)
と民は思った(ここらへん、私のトンデモ説)。そう鳴門、人心は蜂須賀の殿に向かい、
「えらやっちゃ、えらやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ!
踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損ソン!」
となってうまくいったそうである。それはともかく、
そのあと、いろいろとあるのだが、関ヶ原の功で家政の倅至鎮が再封され、
幕末まで続くのである。ちなみに、1616年の大阪の陣で敗走した土佐の
長宗我部盛親を見つけて捕らえたのは蜂須賀軍の手の者である。ともあれ、
阿波踊りはもはや徳島名物であるばかりか、全国的な夏の踊りに広がってる。
あの「ぞめき囃子」の節と律動は、聴くものを高揚させる要素を備えてるのである。
♪【ラー<シ・<ドー>シ】|>【ラー<シ・<ドー>シ】|>【ラー<シ・<ドー>シ】|
>【ラー<シ・<ドー>シ】|>ラー<シ>ラ>・ファーー|
<ラー<シ>ラ>・ファー>ミ|<ラー<シ・<ドーー♪
チャイコフスキーがその集大成で用いた【365歩のマーチ指向動機】
=【3度上って2度下がる】という【「悲愴」の主要主題の動機】が、とめどなく流れる。
阿波踊り「ぞめき囃子」
→大バッハ「マタイ受難曲」:
♪【ラーー・ー<シ<ド・>【【シーー・ー】<♯ド<レ|>♯ド】】>シ>ラ♪
→モーツァルト「レクィエム」:
♪○○ラーーラ>♯ソ♯ソ|<【ラー<シー<ドー>シー】♪
→ベートーフェン「8番pf(悲愴)ソナタ」:
♪【ラーーー・ーーーー・ーーラー・<シーー<ド
・ドーーー・ーーーー>シーーー・ーーーー】♪
同「5番(運命)交響曲」:
♪【ソー<ラー|<♭シー>ラー】|>ソー<ラー|>ソー>ファー♪
同「9番交響曲」:
♪ミーーー・<ファー<ソー|ソー>ファー・>ミー>レー|
>【ドーーー・<レー<ミー|ミーー>レ・レーーー】♪
→シューベルト「(未完成)交響曲」:
♪ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|<ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|
<【ドーーーーー|<レー<♭ミーー>レ】|>ドー>シーーー|<ドー♪
♪ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|<ミーーーーー|>ラーー>♯ソ<ラ<シ|
>【(N)ソー<ラーー<♭シ|♭シー>ラーー】<ド|ドー>シー♪
→ブルックナー「7番交響曲」:
♪【ラ<シ<ドッ>シッ】|【ラ<シ<ドッ>シッ】♪
→チャイコフスキー「6番交響曲」:
♪【ラ<シ|<ドー>シーーー】
同「スペードの女王」:
♪【ド<レーー<ミ|ミーー>レ・レーーー】♪
同「ハシバミ割り人形」
♪【ドー<レー<ミー|>レーーーーー】♪
→マーラー「5番交響曲」:
♪ミ<ファ<ソ|ソ>ララー・ー<
【ソ<ラ<シ|>ラーーー・ー】【ラ<シ<ド|ド>>シシー・ー】♪
という「ただ知るもののみだけ」に伝播してく「連」なのである。
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