西洋音楽のいわゆるクラシック音楽(クラ音、と私はしばしば称する)とは、
教会旋法から生じた対位法的旋律の重ね合わせが
Jean Philippe Rameau(ジョン・フィリプ・ラモ、1683-1764)、
いわゆるジャン・フィリップ・ラモーの時代、18世紀初頭に
機能和声へと発展したことによって成立したものである。
それがヴァーグナーのトリスタン和声によって限界に達し、
20世紀のカオス的なものへと移行して終焉を迎えた。
そのように、たかだか300年という短いスパンの中で
花開き、そして萎んだ特殊な世界のものである。
その中で、名を残した作曲家は
数百人程度である。そして、さらに
真の傑作を生みだした者に絞れば
百名ほどしかいない。しかも、
その平均寿命は、
同時代の(1650-1950)著名画家や作家と比べたら、
おどろくほど短い。
長寿だった画家や作家は、
爺さんになってもけっこう後世に残る作品を生み出した。が、
クラ音の大作曲家はそもそも60歳以上まで生きた者は少ない。
たとえ60歳以上生きても、現実は、
作曲することは至難の業だった。
バッハの「音楽の捧げ物」「フーガの技法」(以上は私は傑作とは思わないが)
「ロ短調ミサ」(60歳以前に書かれてるものがほとんど)
(いずれにしても、全作品数に比してほんのわずか)、
ヘンデルの「マカベウスのユダ」「王宮の花火の音楽」、
ハイドンの「天地創造」「四季」「交響曲第101番」「交響曲第104番」「現ドイツ国歌」、
ヴァーグナーの「パルスィファル」、
ヴェルディの「オテロ」「ファルスタッフ」、
グノーの「小交響曲」、
フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」「交響曲」「プシュケ」、
フォーレの室内楽のいくつか(私は傑作とは思わないが)、
ヨーハン・シュトラウス(倅)の「皇帝円舞曲」、
リヒャルト・シュトラウスの「メタモーフォーセン」、
ヤナーチェク「ダラス・ブーリヴァ」「弦四(クロイツェル・ソナタ)」「弦四(ないしょの話)」、
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」「交響曲第3番」「交響舞曲」、
ブルックナーの「交響曲第8番」、
程度しかないのである。
「交響曲第9番」はブルックナーの最高傑作ながら、
ついに完成させることができなかったし、
プッチーニも傑作ながら「トゥーランドット」を未完のまま死んだ。
スィベリウスは60歳を越してからは作曲自体ができなくなった。
ロッスィーニ、リスト、ファリャ、ストラヴィンスキー、ロドリーゴなどは、60歳以降は
クズしか書けなかった。こうしてみると、老いてなお
性欲旺盛な者は、齢取っても作曲という作業をこなせるようである。
これは、凡人の男性でも性機能は50代までというのがほとんど、
というのとよく合致する。
Camille Saint-Saens(キャミユ・サン=ソンス、1835-1921)、
いわゆるカミーユ・サン=サーンスは86歳まで生きた。7月王政下の
内務省書記官の父親はサン=サーンスが生まれて3か月で死んだ。
母親と大伯母に育てられたサン=サーンスは、
マザコンとなったが、モーツァルト以上の神童でもあった。
音楽のみならず、詩・ギリシャ劇・絵画・哲学など、
多岐にわたる才能を発揮したという。また、
算=算数、と名にし負ってるだけあって、
天文学・数学などにも造詣が深かったらしい。
音楽の道に進んだサン=サーンスはそれなりに
順調に成功してった。が、
マザコンなのでなかなか結婚しなかった。
40歳のとき、教え子の女性の妹(19歳)と結婚した。
すぐに長男が生まれ、2年後には次男が生まれた。が、
3歳になる長男がアパルトマンの4階の窓から身を乗り出して
転落死してしまった。さらに、
次男も肺炎で死んでしまったのである。
その3年後、サン=サーンスは突然、置き手紙をして
若妻の元を去ってしまった。
そのまた6年後には母親が死んで、ますます
自作をひっさげての演奏旅行が多くなった。
60歳を迎えたのは1895年のことである。以降、
「vnソナタ第2番」「pf協奏曲第5番」「vc協奏曲第2番」「vcソナタ第2番」
など、そこそこの作品は遺してる。また、1908年、
映画史上初めて映画音楽を作曲した。ときに、
サン=サーンス、73歳。
"L'assassinat du duc de Guise
(ラサスィナ・デュ・デュク・ドゥ・ギズ=ギーズ公の暗殺)"
という黒白無声映画である。この音楽も
耳障りはいいものの陳腐なものである。
大久保利通と高橋幸宏の顔を判別できなくなることもある
拙脳なる私には、サン=サーンスの最後の作品が何なのか
知る由もないが、死の年1921年の作品番号169の
"Feuille D'album(フイユ・ダルバム=アルバムの一ページ)"
というpf曲は陳腐きわまりない。
死の2年前、1919年に"作曲"された作品番号156の
"Cypres et lauriers(スィプレ・エ・ロリエ、糸杉と月桂樹)"
は、オルガンとオーケストラのための音楽である。
第1次世界大戦でにっくきドイツを破った戦勝祝いに、
ドイツ(およびオーストリア)を目の敵にしてた
愛国者サン=サーンスがフランス兵犠牲者を弔い(糸杉)、
祖国フランスの凱旋(月桂樹)を謳ったものである。時の大統領、
Raymond Poincare(レモン・プワンキャレ、1860-1934)、
いわゆるレイモン・ポワンカレに捧げた。
レモン・ポワンカレは、ついこの前まで「難題」として有名だった
「ポワンカレ予想」の数学者アンリ・ポワンカレの従兄弟であり、
エコル・ポリテクニク出の理系エリート政治家である。
フランス軍の凱旋行進曲である「糸杉と月桂樹」のエンディングは、
オルガンの和音に3管のトランペットが絡む、ベタな作りとなってる。
聴いてるこちらが気恥ずかしくなってしまうほどである。が、
84歳という年齢を含め、それなりの感動はひきおこされる。
(この「糸杉と月桂樹」のエンディングをオルガン単独にしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao_13/saint-seans-cypres-et-lauriers-ending-organ
にアップしておきました)
「動物の謝肉祭」での当代作曲家への
揶揄・皮肉を込めた引用に見られるように、
そのありあまる才能ゆえの鼻持ちならない性根が疎まれて、
ドビュッシーやサティに悪態をつかれ、ヴァグネリアンからバカにされた
サン=サーンスは、生粋の調性音楽・機能和声をかたくなに守る、
音楽界のアンシャン・レジームの人だった。
同世代のドリーブ、ビゼーなどはもちろん、子の世代の
ドビュッシーもとっくに他界してる1921年、
サン=サーンスはパリを離れて、
フランスの植民地アルジェリアに死に場所を求めたのだった。
アルジェのオテル・ドゥ・ロアズィスで肺炎のために
86歳の生涯を終えた。遺体は本国へ送られ、
オルガニストを務めてたマドレーヌ寺院において
国葬を以て遇された。
教会旋法から生じた対位法的旋律の重ね合わせが
Jean Philippe Rameau(ジョン・フィリプ・ラモ、1683-1764)、
いわゆるジャン・フィリップ・ラモーの時代、18世紀初頭に
機能和声へと発展したことによって成立したものである。
それがヴァーグナーのトリスタン和声によって限界に達し、
20世紀のカオス的なものへと移行して終焉を迎えた。
そのように、たかだか300年という短いスパンの中で
花開き、そして萎んだ特殊な世界のものである。
その中で、名を残した作曲家は
数百人程度である。そして、さらに
真の傑作を生みだした者に絞れば
百名ほどしかいない。しかも、
その平均寿命は、
同時代の(1650-1950)著名画家や作家と比べたら、
おどろくほど短い。
長寿だった画家や作家は、
爺さんになってもけっこう後世に残る作品を生み出した。が、
クラ音の大作曲家はそもそも60歳以上まで生きた者は少ない。
たとえ60歳以上生きても、現実は、
作曲することは至難の業だった。
バッハの「音楽の捧げ物」「フーガの技法」(以上は私は傑作とは思わないが)
「ロ短調ミサ」(60歳以前に書かれてるものがほとんど)
(いずれにしても、全作品数に比してほんのわずか)、
ヘンデルの「マカベウスのユダ」「王宮の花火の音楽」、
ハイドンの「天地創造」「四季」「交響曲第101番」「交響曲第104番」「現ドイツ国歌」、
ヴァーグナーの「パルスィファル」、
ヴェルディの「オテロ」「ファルスタッフ」、
グノーの「小交響曲」、
フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」「交響曲」「プシュケ」、
フォーレの室内楽のいくつか(私は傑作とは思わないが)、
ヨーハン・シュトラウス(倅)の「皇帝円舞曲」、
リヒャルト・シュトラウスの「メタモーフォーセン」、
ヤナーチェク「ダラス・ブーリヴァ」「弦四(クロイツェル・ソナタ)」「弦四(ないしょの話)」、
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」「交響曲第3番」「交響舞曲」、
ブルックナーの「交響曲第8番」、
程度しかないのである。
「交響曲第9番」はブルックナーの最高傑作ながら、
ついに完成させることができなかったし、
プッチーニも傑作ながら「トゥーランドット」を未完のまま死んだ。
スィベリウスは60歳を越してからは作曲自体ができなくなった。
ロッスィーニ、リスト、ファリャ、ストラヴィンスキー、ロドリーゴなどは、60歳以降は
クズしか書けなかった。こうしてみると、老いてなお
性欲旺盛な者は、齢取っても作曲という作業をこなせるようである。
これは、凡人の男性でも性機能は50代までというのがほとんど、
というのとよく合致する。
Camille Saint-Saens(キャミユ・サン=ソンス、1835-1921)、
いわゆるカミーユ・サン=サーンスは86歳まで生きた。7月王政下の
内務省書記官の父親はサン=サーンスが生まれて3か月で死んだ。
母親と大伯母に育てられたサン=サーンスは、
マザコンとなったが、モーツァルト以上の神童でもあった。
音楽のみならず、詩・ギリシャ劇・絵画・哲学など、
多岐にわたる才能を発揮したという。また、
算=算数、と名にし負ってるだけあって、
天文学・数学などにも造詣が深かったらしい。
音楽の道に進んだサン=サーンスはそれなりに
順調に成功してった。が、
マザコンなのでなかなか結婚しなかった。
40歳のとき、教え子の女性の妹(19歳)と結婚した。
すぐに長男が生まれ、2年後には次男が生まれた。が、
3歳になる長男がアパルトマンの4階の窓から身を乗り出して
転落死してしまった。さらに、
次男も肺炎で死んでしまったのである。
その3年後、サン=サーンスは突然、置き手紙をして
若妻の元を去ってしまった。
そのまた6年後には母親が死んで、ますます
自作をひっさげての演奏旅行が多くなった。
60歳を迎えたのは1895年のことである。以降、
「vnソナタ第2番」「pf協奏曲第5番」「vc協奏曲第2番」「vcソナタ第2番」
など、そこそこの作品は遺してる。また、1908年、
映画史上初めて映画音楽を作曲した。ときに、
サン=サーンス、73歳。
"L'assassinat du duc de Guise
(ラサスィナ・デュ・デュク・ドゥ・ギズ=ギーズ公の暗殺)"
という黒白無声映画である。この音楽も
耳障りはいいものの陳腐なものである。
大久保利通と高橋幸宏の顔を判別できなくなることもある
拙脳なる私には、サン=サーンスの最後の作品が何なのか
知る由もないが、死の年1921年の作品番号169の
"Feuille D'album(フイユ・ダルバム=アルバムの一ページ)"
というpf曲は陳腐きわまりない。
死の2年前、1919年に"作曲"された作品番号156の
"Cypres et lauriers(スィプレ・エ・ロリエ、糸杉と月桂樹)"
は、オルガンとオーケストラのための音楽である。
第1次世界大戦でにっくきドイツを破った戦勝祝いに、
ドイツ(およびオーストリア)を目の敵にしてた
愛国者サン=サーンスがフランス兵犠牲者を弔い(糸杉)、
祖国フランスの凱旋(月桂樹)を謳ったものである。時の大統領、
Raymond Poincare(レモン・プワンキャレ、1860-1934)、
いわゆるレイモン・ポワンカレに捧げた。
レモン・ポワンカレは、ついこの前まで「難題」として有名だった
「ポワンカレ予想」の数学者アンリ・ポワンカレの従兄弟であり、
エコル・ポリテクニク出の理系エリート政治家である。
フランス軍の凱旋行進曲である「糸杉と月桂樹」のエンディングは、
オルガンの和音に3管のトランペットが絡む、ベタな作りとなってる。
聴いてるこちらが気恥ずかしくなってしまうほどである。が、
84歳という年齢を含め、それなりの感動はひきおこされる。
(この「糸杉と月桂樹」のエンディングをオルガン単独にしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao_13/saint-seans-cypres-et-lauriers-ending-organ
にアップしておきました)
「動物の謝肉祭」での当代作曲家への
揶揄・皮肉を込めた引用に見られるように、
そのありあまる才能ゆえの鼻持ちならない性根が疎まれて、
ドビュッシーやサティに悪態をつかれ、ヴァグネリアンからバカにされた
サン=サーンスは、生粋の調性音楽・機能和声をかたくなに守る、
音楽界のアンシャン・レジームの人だった。
同世代のドリーブ、ビゼーなどはもちろん、子の世代の
ドビュッシーもとっくに他界してる1921年、
サン=サーンスはパリを離れて、
フランスの植民地アルジェリアに死に場所を求めたのだった。
アルジェのオテル・ドゥ・ロアズィスで肺炎のために
86歳の生涯を終えた。遺体は本国へ送られ、
オルガニストを務めてたマドレーヌ寺院において
国葬を以て遇された。
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