旧文部省唱歌「虫のこゑ」の二番の歌詞は、
「きりきりきりきり、きりぎりす」
と当初は始められたが、
<「きりぎりす」は「こおろぎ」を指す古語>
という鬼の首を取ったような理屈で、
昭和7年の「新訂尋常小学唱歌」において
「改変」されたということである。さて、
「百人一首」の#091は、
「後京極摂政前太政大臣」、つまり、
藤原(九条)良経(よしつね)の歌である。
[蟋蟀、鳴くや霜夜の、さむしろに、衣片敷き、ひとりかも寝む]
(通説訳)
当時の「きりぎりす」はコオロギを指す言葉、
「鳴くや」の「や」は間投助詞で「鳴く」は「霜夜」にかかる連体形、
「さむしろ」の「さ」は接頭辞で「寒し」との掛詞、
衣合わせ=男女が違いの衣の袖を引き連ねて夜をともにする、
という前提のもとに、
「コオロギが鳴く霜が降りた寒い夜、
筵に私の衣だけを敷いてひとり寂しく寝るのだろうか?」
じつに不思議な歌(その解釈だと)である。
「きりぎりす」は夏の暑いときにしか鳴かない
(それもほとんど昼間)ので、おそらくはコオロギのことなのだろう。が、
コオロギとて、霜が降りるような晩秋
(当時の暦で9月、現在の暦で10月下旬から11月)には、
もうこの世にはいない。まったくあり得ないわけではないが、
歌にするくらいなので共通の認識が必要である以上、
「実際にコオロギが鳴いた(寒い)夜」という考えが間違ってる、
と私は考える。ここは、
鳴くはずのない時節のコオロギを自分の境遇に譬えてる擬人法なのである。
(拙大意)
私は「鳴くや」の「や」は反語を表す終助詞で「鳴く」は終止形、
という認識で、
「蟋蟀(コオロギでもキリギリスでもいい、が、おそらくコオロギ)が
鳴いてるのだろうか、いや、そんなはずはない。
なぜなら、この霜が降りるような寒い夜には、
コオロギがメスを求愛して鳴くはずもないからだ。
妻が亡くなった今、ムシのように求愛する相手もいない私は
この粗末な筵(サムシとムシとムシロの三重掛詞)の上に
自分の衣の袖だけを敷いて独りで寝るのであろうか?」
歌(和歌)というのは、ただ事実を述べたり、
現実や心情をそのまま描写するものではない。現代においても、
たとえ歌謡曲のようなレヴェルのものでも、
そんな単調な作風の歌詞はクズであり、訴えるものが希薄だから、
大衆の心をとらえることができずヒットしないのと同様である。
藤原(九条)良経(1169-1206)は、
おなじく藤原良経でも世尊寺流の
世尊寺良経とは別人である。というより、
格は摂関家であるこちらのほうが断然に高い。
藤原(九条)兼実の子、つまり、
百人一首にも選ばれてる(#076)
法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の孫である。
正室は、藤原(一条)能保(よしやす)と
源頼朝の同母妹との間の娘(1167-1200)である。
九条家が頼朝や鎌倉幕府と近しいのはこれが大きかった。
この歌はその妻が亡くなったすぐあと、1200年(正治2年)の7月に、
にわか和歌好きになった後鳥羽院
(でも、さすがに和歌を一句二句とは数えなかったことだろう)が命じた
「正治二年院初度百首」に応じた歌である。ちなみに、
良経は藤原(松殿)基房の娘壽子を"後添え"にもらってる。数年後、
良経は後鳥羽上皇の勅命で編纂された「新古今集」の仮名序を書いてる。
その後鳥羽上皇はのちに北条氏に"逆らっ"て
承久の乱を起こし、ボロ負けして捕まり、
隠岐に島流しになってそこで19年を過ごして果て、
墓には犯罪者を表す金網囲いをされた人物である。
ときに、
良経の
[蟋蟀、鳴くや霜夜の、さむしろに、衣片敷き、ひとりかも寝む]
は、
[さむしろに、衣片敷き、今宵もや、我を待つらむ。宇治の橋姫]
という「古今集」の読み人知らずの歌、
[足引きの、山鳥の尾の、しだり尾の、長々しき夜を、一人かも寝む]
という「拾遺集」の歌(柿本人麻呂、とされてる→百人一首#003)、そして、
[我が恋ふる、妹は会はさず。玉の浦に、衣片敷き、一人かも寝む]
という「万葉集」の読み人知らずの歌、
などを「本歌」に敷いてるとされる。いっぽう、
上述の「新古今集」には、
[秋ふけぬ。鳴けや霜夜の、きりぎりす。やや影さむし。よもぎふの月]
(太上天皇(=太「上」天「皇」、略して、上皇))
(拙大意)
秋は深まってしまった。
鳴いたのだろうか、霜夜のコオロギよ。
かなり明かりが寒々としているからなぁ。
ヨモギが生うほど荒廃した野で見る月は。
という歌の次に良経の歌がつづくのである。
(「鳴けや」は「鳴く」の已然形「鳴け」+疑問の終助詞「や」)
これも「コオロギが鳴いた」というのはフィクション、もしくは、
擬人法である。
「きりきりきりきり、きりぎりす」
と当初は始められたが、
<「きりぎりす」は「こおろぎ」を指す古語>
という鬼の首を取ったような理屈で、
昭和7年の「新訂尋常小学唱歌」において
「改変」されたということである。さて、
「百人一首」の#091は、
「後京極摂政前太政大臣」、つまり、
藤原(九条)良経(よしつね)の歌である。
[蟋蟀、鳴くや霜夜の、さむしろに、衣片敷き、ひとりかも寝む]
(通説訳)
当時の「きりぎりす」はコオロギを指す言葉、
「鳴くや」の「や」は間投助詞で「鳴く」は「霜夜」にかかる連体形、
「さむしろ」の「さ」は接頭辞で「寒し」との掛詞、
衣合わせ=男女が違いの衣の袖を引き連ねて夜をともにする、
という前提のもとに、
「コオロギが鳴く霜が降りた寒い夜、
筵に私の衣だけを敷いてひとり寂しく寝るのだろうか?」
じつに不思議な歌(その解釈だと)である。
「きりぎりす」は夏の暑いときにしか鳴かない
(それもほとんど昼間)ので、おそらくはコオロギのことなのだろう。が、
コオロギとて、霜が降りるような晩秋
(当時の暦で9月、現在の暦で10月下旬から11月)には、
もうこの世にはいない。まったくあり得ないわけではないが、
歌にするくらいなので共通の認識が必要である以上、
「実際にコオロギが鳴いた(寒い)夜」という考えが間違ってる、
と私は考える。ここは、
鳴くはずのない時節のコオロギを自分の境遇に譬えてる擬人法なのである。
(拙大意)
私は「鳴くや」の「や」は反語を表す終助詞で「鳴く」は終止形、
という認識で、
「蟋蟀(コオロギでもキリギリスでもいい、が、おそらくコオロギ)が
鳴いてるのだろうか、いや、そんなはずはない。
なぜなら、この霜が降りるような寒い夜には、
コオロギがメスを求愛して鳴くはずもないからだ。
妻が亡くなった今、ムシのように求愛する相手もいない私は
この粗末な筵(サムシとムシとムシロの三重掛詞)の上に
自分の衣の袖だけを敷いて独りで寝るのであろうか?」
歌(和歌)というのは、ただ事実を述べたり、
現実や心情をそのまま描写するものではない。現代においても、
たとえ歌謡曲のようなレヴェルのものでも、
そんな単調な作風の歌詞はクズであり、訴えるものが希薄だから、
大衆の心をとらえることができずヒットしないのと同様である。
藤原(九条)良経(1169-1206)は、
おなじく藤原良経でも世尊寺流の
世尊寺良経とは別人である。というより、
格は摂関家であるこちらのほうが断然に高い。
藤原(九条)兼実の子、つまり、
百人一首にも選ばれてる(#076)
法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の孫である。
正室は、藤原(一条)能保(よしやす)と
源頼朝の同母妹との間の娘(1167-1200)である。
九条家が頼朝や鎌倉幕府と近しいのはこれが大きかった。
この歌はその妻が亡くなったすぐあと、1200年(正治2年)の7月に、
にわか和歌好きになった後鳥羽院
(でも、さすがに和歌を一句二句とは数えなかったことだろう)が命じた
「正治二年院初度百首」に応じた歌である。ちなみに、
良経は藤原(松殿)基房の娘壽子を"後添え"にもらってる。数年後、
良経は後鳥羽上皇の勅命で編纂された「新古今集」の仮名序を書いてる。
その後鳥羽上皇はのちに北条氏に"逆らっ"て
承久の乱を起こし、ボロ負けして捕まり、
隠岐に島流しになってそこで19年を過ごして果て、
墓には犯罪者を表す金網囲いをされた人物である。
ときに、
良経の
[蟋蟀、鳴くや霜夜の、さむしろに、衣片敷き、ひとりかも寝む]
は、
[さむしろに、衣片敷き、今宵もや、我を待つらむ。宇治の橋姫]
という「古今集」の読み人知らずの歌、
[足引きの、山鳥の尾の、しだり尾の、長々しき夜を、一人かも寝む]
という「拾遺集」の歌(柿本人麻呂、とされてる→百人一首#003)、そして、
[我が恋ふる、妹は会はさず。玉の浦に、衣片敷き、一人かも寝む]
という「万葉集」の読み人知らずの歌、
などを「本歌」に敷いてるとされる。いっぽう、
上述の「新古今集」には、
[秋ふけぬ。鳴けや霜夜の、きりぎりす。やや影さむし。よもぎふの月]
(太上天皇(=太「上」天「皇」、略して、上皇))
(拙大意)
秋は深まってしまった。
鳴いたのだろうか、霜夜のコオロギよ。
かなり明かりが寒々としているからなぁ。
ヨモギが生うほど荒廃した野で見る月は。
という歌の次に良経の歌がつづくのである。
(「鳴けや」は「鳴く」の已然形「鳴け」+疑問の終助詞「や」)
これも「コオロギが鳴いた」というのはフィクション、もしくは、
擬人法である。
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