[Ougai's "Maihime(Die Taenzerin)" issued in 1890.]
先金曜夜20:00からNHKBShiで森鴎外の「舞姫」のモデル女性に関する
90分番組が放送されてたので留守録しといたが、今日それを見た。
「森鴎外の恋人、『舞姫』120年目の新事実」
というタイトルである。作家鴎外のデビュー作
「舞姫」が発表されたのは1890年(明治23年)である。ともあれ、
一言でいえばまぁ、新事実なるものはなかったといっていい。
10年前すでに、損害賠償専攻の法学者植木哲が、"エリス"を
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
という実在人だったと突きとめてる。が、
明治21年年9月8日に帰国した鴎外から、
♪4日、遅れの、エリーゼを乗ーせーて♪
と9月12日に横浜港から入国したドイツ人少女の
乗船名簿にあった名がルイーゼでなく、
「舞姫」の女主人公の名と同じ"エリス"だったのか、
という"答え"には達してないように思われる。
"鴎外と二人だけの間の呼び名"
ということにお茶を濁してた。
植木氏の著書を読んでないが、おそらく、
突きとめられてはないのだろう。番組でも、
「解き明かされない」ままだった。
ともあれ、
鴎外は日本にまで一等船室に乗せて
やってこさせた15歳の少女との約束を守れなかった。
森家の人間がマルク収めてドイツに返した、のだという。
鴎外は日露戦争時に、駄作ではあるが、
「扣鈕」という詩を詠んでる。眞鍋かをり女史は
「釦(ボタン)」にフェティッシュな妄想を催すらしいが、
鴎外もまた同じだった。
[南山の たたかいの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し
べるりんの 都大路の
ぱっさあじゅ 電灯あおき
店にて買いぬ
はたとせまえに
えぽれっと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしずみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらおの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕]
鴎外は官費留学してたドイツの最後の留学先ベルリンで、
軍服コウト用のカフス・ボタンを買った。
日露戦争の20年前のことである。
森林太郎を「しんりん・たろう」だとずっと思いこんでて、
右往左往の意味をシェイクスピアが右側通行ばかりしてたので
他の人たちが左側にしかいけなくて混乱してしまった
ということだと誤認してたような、
中田カウス・ボタンのギャグをひとつも挙げれない
拙脳なる私にはよく解らないが、おそらく、
恋人に選んでもらいでもしたのだろう。ともあれ、
軍医として自分の無知・強情によって
真理を追究することをオリザニンにして、否、オザナリにして、
脚気で多くの兵卒を死なせたことより、
カフス・ボタンを片方なくしたほうが悲しい、
と言ってるも同然である。
鴎外森林太郎は、医学留学してたドイツで、
ヴァーグナーを知った。1886年年6月13日、
ヴァーグナーに溺れたルートヴィヒ2世バイアーン国王の死は、
ミュンヒェンに留学の地を移したばかりの
林太郎の興味をおおいにそそった。
ルートヴィヒが死んだシュターンベアク湖の現場まで
わざわざ行ってるのである。
王の謎の死もさることながら、
ルートヴィヒとともにその傍らで
グッデンと横たわってた侍医に鴎外は
感じ入ったらしい。当時は、
その侍医が溺れかけてる王を助けようとして
自らも溺死したと思われてたからである。
その忠臣ぶりに、津和野藩亀井家の御典医の家に
生まれた林太郎の心は揺さぶられた。
「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」など、
鴎外は生涯、殉死について、
並々ならぬ思いをめぐらせてた。
森家は医師であって武士ではない。だから、
武士の体面について解せない面があったのである。
体面を失する恥・屈辱を単にばかばかしいと思うのは、
それは武士でないからである。
農民出身の藤沢周平が描く武士の世界は
現実とは隔たりがある荒唐無稽なものだが、鴎外にも
そうした部分があるのはしかたない。ともあれ、
林太郎は後年、ルートヴィヒと侍医の死を
「うたかたの記」に著した。ちなみに、
林太郎のドイツ留学における研究のひとつは、
「ビールの利尿作用」である。だから、
"泡沫の記"だったというわけではない。
さて、
上記番組は終いで、鴎外は晩年、
「トリスタン」2幕第2場の「愛の二重唱」
"Isolde! Geliebte!(イゾルデ! ゲリープテ(=愛しいひと)!)"
を口ずさんでたと言ってたと娘の言葉を再現映像にしてた。
もしそれが本当だとしたら、
"Elise! Geliebte!"もしくは"Luise! Geliebte!"
だったのではと思うが、ベルリン留学時代の林太郎と
キム兄(木村佑一)の顔の区別もつかない
拙脳なる私の推測である。いずれにせよ、
ルートヴィヒ2世がもっとも愛した「ローエングリン」も
鴎外は知ってたらしい。すると、
「エルザ」と「白鳥の騎士」の結婚、
を意識して、なんらかの不遇をかこってた
ルイーゼを救うべく手をさしのべ、
エルザ=エリーゼ=エリスと呼んだ、
のかもしれない。あるいは、
知り合ったとき、林太郎が
ルイーゼをエリーゼと聞き誤ったのをそのまま
二人の間の呼び名にしたとか。が、
自分の正体が官費留学生だとわかってしまったたとき、
林太郎は白鳥ならぬ船で日本に旅立ってった。が、
エリーゼは死なず、別の便で日本に向う。
林太郎が仕組んだことだったらしい。が、
母親の説得に負け、林太郎はエリーゼを諦めた。
ちなみに、
約1箇月間、鴎外が家族その他を説得するまでと言いくるめられて
"エリーゼ・ヴィーゲルト"女史が滞在してたのは、現在の
時事通信ビル(2000年頃までは銀座東急ホテル)にあった
築地精養軒だそうである。現在もある上野精養軒と同系列である。
この下を通る首都高都心環状線の汐留トンネルでは、
下水の異臭が甚だしいことがよくある。
Sewage smell issues around there.
先金曜夜20:00からNHKBShiで森鴎外の「舞姫」のモデル女性に関する
90分番組が放送されてたので留守録しといたが、今日それを見た。
「森鴎外の恋人、『舞姫』120年目の新事実」
というタイトルである。作家鴎外のデビュー作
「舞姫」が発表されたのは1890年(明治23年)である。ともあれ、
一言でいえばまぁ、新事実なるものはなかったといっていい。
10年前すでに、損害賠償専攻の法学者植木哲が、"エリス"を
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
という実在人だったと突きとめてる。が、
明治21年年9月8日に帰国した鴎外から、
♪4日、遅れの、エリーゼを乗ーせーて♪
と9月12日に横浜港から入国したドイツ人少女の
乗船名簿にあった名がルイーゼでなく、
「舞姫」の女主人公の名と同じ"エリス"だったのか、
という"答え"には達してないように思われる。
"鴎外と二人だけの間の呼び名"
ということにお茶を濁してた。
植木氏の著書を読んでないが、おそらく、
突きとめられてはないのだろう。番組でも、
「解き明かされない」ままだった。
ともあれ、
鴎外は日本にまで一等船室に乗せて
やってこさせた15歳の少女との約束を守れなかった。
森家の人間がマルク収めてドイツに返した、のだという。
鴎外は日露戦争時に、駄作ではあるが、
「扣鈕」という詩を詠んでる。眞鍋かをり女史は
「釦(ボタン)」にフェティッシュな妄想を催すらしいが、
鴎外もまた同じだった。
[南山の たたかいの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し
べるりんの 都大路の
ぱっさあじゅ 電灯あおき
店にて買いぬ
はたとせまえに
えぽれっと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしずみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらおの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕]
鴎外は官費留学してたドイツの最後の留学先ベルリンで、
軍服コウト用のカフス・ボタンを買った。
日露戦争の20年前のことである。
森林太郎を「しんりん・たろう」だとずっと思いこんでて、
右往左往の意味をシェイクスピアが右側通行ばかりしてたので
他の人たちが左側にしかいけなくて混乱してしまった
ということだと誤認してたような、
中田カウス・ボタンのギャグをひとつも挙げれない
拙脳なる私にはよく解らないが、おそらく、
恋人に選んでもらいでもしたのだろう。ともあれ、
軍医として自分の無知・強情によって
真理を追究することをオリザニンにして、否、オザナリにして、
脚気で多くの兵卒を死なせたことより、
カフス・ボタンを片方なくしたほうが悲しい、
と言ってるも同然である。
鴎外森林太郎は、医学留学してたドイツで、
ヴァーグナーを知った。1886年年6月13日、
ヴァーグナーに溺れたルートヴィヒ2世バイアーン国王の死は、
ミュンヒェンに留学の地を移したばかりの
林太郎の興味をおおいにそそった。
ルートヴィヒが死んだシュターンベアク湖の現場まで
わざわざ行ってるのである。
王の謎の死もさることながら、
ルートヴィヒとともにその傍らで
グッデンと横たわってた侍医に鴎外は
感じ入ったらしい。当時は、
その侍医が溺れかけてる王を助けようとして
自らも溺死したと思われてたからである。
その忠臣ぶりに、津和野藩亀井家の御典医の家に
生まれた林太郎の心は揺さぶられた。
「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」など、
鴎外は生涯、殉死について、
並々ならぬ思いをめぐらせてた。
森家は医師であって武士ではない。だから、
武士の体面について解せない面があったのである。
体面を失する恥・屈辱を単にばかばかしいと思うのは、
それは武士でないからである。
農民出身の藤沢周平が描く武士の世界は
現実とは隔たりがある荒唐無稽なものだが、鴎外にも
そうした部分があるのはしかたない。ともあれ、
林太郎は後年、ルートヴィヒと侍医の死を
「うたかたの記」に著した。ちなみに、
林太郎のドイツ留学における研究のひとつは、
「ビールの利尿作用」である。だから、
"泡沫の記"だったというわけではない。
さて、
上記番組は終いで、鴎外は晩年、
「トリスタン」2幕第2場の「愛の二重唱」
"Isolde! Geliebte!(イゾルデ! ゲリープテ(=愛しいひと)!)"
を口ずさんでたと言ってたと娘の言葉を再現映像にしてた。
もしそれが本当だとしたら、
"Elise! Geliebte!"もしくは"Luise! Geliebte!"
だったのではと思うが、ベルリン留学時代の林太郎と
キム兄(木村佑一)の顔の区別もつかない
拙脳なる私の推測である。いずれにせよ、
ルートヴィヒ2世がもっとも愛した「ローエングリン」も
鴎外は知ってたらしい。すると、
「エルザ」と「白鳥の騎士」の結婚、
を意識して、なんらかの不遇をかこってた
ルイーゼを救うべく手をさしのべ、
エルザ=エリーゼ=エリスと呼んだ、
のかもしれない。あるいは、
知り合ったとき、林太郎が
ルイーゼをエリーゼと聞き誤ったのをそのまま
二人の間の呼び名にしたとか。が、
自分の正体が官費留学生だとわかってしまったたとき、
林太郎は白鳥ならぬ船で日本に旅立ってった。が、
エリーゼは死なず、別の便で日本に向う。
林太郎が仕組んだことだったらしい。が、
母親の説得に負け、林太郎はエリーゼを諦めた。
ちなみに、
約1箇月間、鴎外が家族その他を説得するまでと言いくるめられて
"エリーゼ・ヴィーゲルト"女史が滞在してたのは、現在の
時事通信ビル(2000年頃までは銀座東急ホテル)にあった
築地精養軒だそうである。現在もある上野精養軒と同系列である。
この下を通る首都高都心環状線の汐留トンネルでは、
下水の異臭が甚だしいことがよくある。
Sewage smell issues around there.
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