ムンク カイユボット
ノルウェーの画家Munch(ムンク)は、ドイツ語の
Mo(ウムラウト附き)nch(メンク=修道僧)に由来する。
南ドイツ・バイアーンの都市Mu(ウムラウト附き)nchenの地名も
同様である。そして、このMo(ウムラウト附き)nchは、
古代ギリシア語monachos(モナコス=一人、孤独)由来の
ラテン語monachus(モナクス)がもとになってる。といっても、
桜田淳子女史が歌った「私の青い鳥」と
加藤茶と志村けんが踊った「ヒゲダンス」の"Do Me"との違いが
区別できない拙脳なる私の認識であるが、
この説明自体にモンクはないだろう。
エドヴァルド・ムンクがちょうど10歳年上の
フィンセント・ファン・ホーホ(いわゆるゴッホ)に影響されてるのは明らかである。
「生前にはたった1枚しか売れなかった
(買ったのは知人の姉、という温情買取)。しかも、死のたった
4箇月前*」だったのに、生きてる間に
ゴッホは画家連中にはよく知られた存在だったのである。
ゴッホが画家になる決意をしたのが27歳の1880年であり、
いわゆる本格的な作画をした期間は、
1886年にルーベンスの絵を見たり日本の版画を知ったことで
パリに出てから自殺する1890年までの
たった5年間だけであることを考えると、じつに興味深い。
(*1888年11月にアルルで描いた「赤い葡萄畑(La Vigne rouge)」
(現在はいわゆるモスクワのプーシキン美術館蔵)が、
1890年3月、ブリュッセルの「20人展」において、
400フランで売れた。現在の800ユーロほどの価値。
無名の画家の小さい絵なので約9万円は妥当な値)
ムンクは1889年にパリに留学した。そこでは、
いろんなものを見たことだろう。
金持ちのボンボンの画家カイユボットの作品に、
"Homme au Balcon(オム・オ・バルコン=バルコニーの男)"という
1880年に描かれた油彩がある。オスマン通りに面したメゾンのバルコニーの
柵の手すりに肘をついて通りを眺めてる男を描いたものである。
画面左上から右下に向かってバルコニーの柵の手すりが引かれ、
男は顔の右側をこちらに向けてるという構図である。いっぽう、
"Un Balcon, Boulevard Haussmann
(アン・バルコン、ブルヴァル・ドスマォン=バルコニー、オスマン大通り)"
は、前者を左右逆版にして男性の位置を上方に移し、
もうひとり手前に建物を背にしてる男を加えた絵である。いずれも、
その構図は日本の版画の影響である。が、
ムンクはこのカイユボットの絵をとまったく同じ構図で、
"Rue Lafayette(リュ・ラファイエット=ラファイエット通り)"(1891年)、
"Desespoir(デセスプワル=絶望)"(1892年)という絵を
それぞれ描いてるのである。ただし、前者は
建物を背にしてる男のほうはは描いてない。
「ゴッホ没後120年展」が、国立新美術館で
10月1日から開催されるようである。
ファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュラー美術館のコレクションから
約120点が出品されるらしい。ところで、
ファン・ゴッホ美術館にはカイユボットが1880年に制作した
"Vue Prise a Travers un Barcon
(ヴィュ・プリズ・ア・トラヴェル・ザン・バルコン
=バルコニーの柵ごしの景観。**このun Barconは
バルコニーではなく、バルコニーの柵、手すりを指す)"
が所蔵されてる。この絵は、まぎれもなく、
歌川広重の名所江戸百景の一、
「浅草田甫酉の町詣(あさくさたんぼとりのまちもうで)」
を下敷きにした絵画である。
吉原の妓楼(ぎろう)から大鳥神社を望んだ風景画なのだが、
画面手前はその妓楼の障子窓の縦格子と横二本の格子が
大きく描かれ、その隙間から外の景色が見えてる、そして、
窓の桟に乗っかった白い猫がその外の景色を眺めてる、
という構図である。
カイユボットの絵はバルコニーの柵をクロウズアップさせてる。が、
であるからして、広重の版画の意図は汲んでなかったことが判る。
浅草といっても、現在の感覚ではむしろ千束である。
当時の新吉原、つまり、遊郭である。で、大鳥神社は、
現在の鷲神社(おおとりじんじゃ=おとりさま)である。
明暦の大火後に移転させられた吉原は新吉原と呼ばれ、
酉の日は紋日(ものひ、もんび)の一とされ、
遊郭のすべての門が開放されて出入り自由とされた。
紋日(物日)とは、遊郭において五節句その他特に決められた日で、
その日は遊女は皆勤義務があり、白小袖を着て馴染みの客を待って、
目標売り上げを達成しなければならなかったのである。
広重の版画では、画面左の襖の下からわずかに覗いた
熊手かんざしが開けられた包み紙の上に置かれてる。それは
客からの土産である。その傍らには、
御事紙(おことがみ=御事の後始末の紙=精液を拭い取る紙)が
重ねられて置かれてる。そして、
窓の桟に置かれた手ぬぐいには鳥の羽、
窓下の腰紙は吉原雀の図柄、
屏風の端も鳥の模様、
さらに、窓の桟には鳥が大好物ですぐに襲う猫、
窓外の遠景には雁の一群が描かれてる。
このように、
「鳥づくし」になってるのである。それにしても、
遠景に描かれてる鳥は
カリである。そして、その下には霊峰
富士が描かれてる。が、
江戸時代の富士山は公には「女人禁制」だった。明治5年になって
ようやく、明治政府によってその禁は解かれる。といっても、
実際に女性が富士に登った(吉田口から)のは
天保3年(概ね、西暦1832年)だった。それは隠れて
「男装」してのうえでだった。広重が
「浅草田甫酉の町詣」を描く四半世紀も前のことである。ともあれ、
その女性の名が躍ってる。なんと、「高山たつ」なのである。
高い山に立つ……登るべくしてのぼったという感じの名である。
高山たつ女史(文化10年(概ね、西暦1813年)-明治9年(1876年))は、
高山右近の後裔で、尾張家の女中をしてた女性らしい。ちなみに、
現在でも富士山の登山道と旧測候所を除く八合目以上は、
浅間大社の社有地(境内)である。その
「女人禁制」の富士と吉原とのコントラストを広重は描いたのである。
ところで、
ゴッホには"Le Pere Tanguy(ル・ペル・タンギ=タンギー爺さん)"(1887年)
という絵がある。帽子を被り、ダブル・ボタンの上着で手を前で組み、
腰掛けた画材商のオヤジを描いたものである。
ゴッホは私と同じくスペア強迫観念があったようで、
この絵も2点描いてる。その一方の、
現在ロダン美術館に所蔵されてる絵には、タンギー爺さんの頭上に、
「富士山」が描かれてる日本の版画のゴッホ流の複写が飾られてる。
この絵にも「雁」が描かれてるのである。ところで、
この絵の色づかいでも感じられるように、
ゴッホの色づかいは「普通とは違う」のである。単に、
風変わりというのではない。ゴッホは(遺伝性の)
第三色盲だったのではないかと一部で言われてる。が、
仮にそうだとしたら、遺伝性ではなく、
後天性のものだと推測される。
第三色盲はヒトが持ってる3つの錐体のうち、
青錐体の機能が欠損したものである。通常は、
L錐体(赤錐体)、M錐体(緑錐体)、S錐体(青錐体)の
3つの錐体が機能してる。が、ヒトはその
L錐体(赤錐体)とM錐体からの情報を主に色覚の源としてる。ので、
青錐体の機能が欠損した第三色盲は、通常の色覚に
"近い"といえる。が、当然に
「青」の範囲が通常のヒトより広い。通常の
いわゆる「青紫」から「黄緑」までを「青」として知覚してしまう。つまり、
「緑」という認識がない。
「黄」は白っぽく見える。
低明度の青は黒に見える。だから、
先天性だったらゴッホに緑は描けない。ときに、
淋病は眼疾患を併発しやすい。ゴッホは
1883年にハーグで娼婦と同棲し、淋病を移された。
淋病だけでなく、性感染症は他にもたくさんある。
その中の細菌やウィルスが視神経を犯す可能性もある。あるいは、
糖尿病や何らかの原因によるブドウ膜炎によって、
視界が暗くなってったのかもしれない。
1890年(明治23年)7月27日、ゴッホは下宿してた
L'Auberge Ravoux(ロベルジュ・ラヴ=ラヴ宿、いわゆるラヴー亭)
に夕方、いつもより遅く、よろけながら帰ってきたという。
宿の女将が心配するとゴッホは何でもないと言って
屋根裏の自室に上がってったらしい。尋常でないので、
亭主が部屋に行くと、ゴッホは銃創を見せたとのことである。
医師Gachet(ガシェ)が呼ばれた。ちなみに、
フランス語でgachette(ガシェト)とは、銃の引き金のことである。
それはどうでも、パリの弟テオに電報が打たれた。翌日正午頃、
テオが駆けつけると、
「泣かないでくれ。泣いても何にもならないよ。
他にホーホうはなかったんだ。
僕が生きてれば、悲しみはいつまでも続くんだ。
こんなふうに死にたいと思ってたんだよ」
というようなことを言ったという。
強烈な銃創の痛みに耐えながら、日が変わって夜中の
1時半に臨終を向かえたらしい。
ゴッホが自殺に使ったとされてる銃は、
ラヴの亭主が持ってたもので、麦畑で作画する際に
カラスを追い払うという目的でゴッホがもらい受けたものである。
銃身が長く、うまく心臓を打ち抜くことができなかった、
と推測されてる。そのため、
即死しなかったことでテオは兄の死に目に遭うことができた。
子を残せなかった絵画の天才の兄を
あらゆる面で支援しつづけたテオは精神に錯乱をきたし、
兄の死の半年後、衰弱しきってユトレヒトの精神病院で死んだ。
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