カイユボット ヨーロッパ橋
昨日の深夜からの新年会で夜明かししたので起きたのが
14時だった。それからシャワーを浴びて軽く飯を食って、
TVをつけたらちょうど競馬中継をやってた。今年は金杯で
中山に行く気もなければ買う気もなかったのだが、
京都10Rの発走直後の2頭の落馬を観て感じるものがあった。
落ちたのは武「幸」四郎騎手と藤岡「康」太騎手だった。
「コウ」-「コウ」である。
裏の中山のメインはゾロ目か?
ネットを立ち上げてみると急遽、買う気が起きた。で、まず、
中山の金杯のデンマヒョウを見た。締切まであまり時間がなかったので、
安直に人気馬2頭が揃った4枠のゾロメを普通馬連で買った。それと、
「金」杯は毎年なにかしら「金」に関連する馬名のようなものが
連体するので探したらなく、わずかに
前走が「金」鯱賞10着馬がいたので、その
03番の複勝も買った。すると、
その03番が勝って同枠の04番が2着に突っ込んできた。
ヤラレた!
2枠のゾロメだった。
とはいえ、複勝は当たった。配当3.3倍。で、欲が出て、
京都金杯まで買う気になった。
中山の勝利ジョッキーが外人ベリーだったから、
ひょっとすると京都もか、と思って、
02番ルメールから人気馬に普通馬連を8点流した。すると、
しんがりから3番手あたりから直線内をついて
糸で引かれるように02番が伸びてきた。そのうしろから
1番人気の06番がやはり追い込んできた。
02-06が的中。ヒモが1番人気馬ながら、
配当はなんと24.7倍。昨夜かかった飲み代を一気に
ポンとうかせてしまった。
こいつぁあ銭を張るから縁起がいい。
昨年の10月10日というゾロメ日付から
日本橋(というか東京駅八重洲口の正面)の
ブリヂストン美術館で開催されてた
「カイユボット展 都市の印象派、日本初の回顧展」は
12月29日が最終日だったらしい。
ブリヂストン美術館はその名のとおり、
貶日売国奴国賊の鳩山由紀夫の母方の石橋ブリヂストンなので、
万が一にも拙ブログを見て観にいくような奇特なかたがいて
国賊一家を少しでも潤すことがないように、その
閉幕を待って話題に取りあげることにしてた。とはいえ、
かく言う私は、友人からタダ券をもらって
ちゃっかり観にいってきてたのだが。
まず、
西洋美術専門家もそう色分けし、一般にもそうすりこまれてる
「カイユボット=印象派」
という認識は、印象派展に数度出品した画家とはいえ、
画風・絵画思想からいえば正しくない。
「印象派」とは、
「脱貴族趣味」「脱宗教画」「向世俗」「向リベラル思想」で
「光の移ろい感」というお題目で絵画などわからぬ
ブルジョワ以下の庶民に絵を売り、
世間的に名を売ることを本願としてた
商業的なミーハー画家モネのことを指す語である。
カイユボットは父親が残した遺産で、
絵を売らなくても生活できるどころか、
金など有り余ってる、その生い立ちはマネ以上の
お坊ちゃんである。しかも、一般学問は苦手な
不肖の息子だったマネとは違って、カイユボットは
きっちりと弁護士資格まで取った秀才でもある。
ともあれ、
カイユボットは同じく裕福な家の倅であるマネがこじ開けた
「絵画の革新」という扉に大きな影響を受けた。
それはモネもルノワールもみな同じだったのだが、
カイユボットはマネ同様にその扉周辺で戯れることに
生きがいを感じる教養人であって、けっして
扉の中の世界の奥深くまでは
足を踏み入れはしなかったのである。
モネはその扉の中の世界のひとつである
絵で金儲けという分野に邁進し、大成功を収めた。
セザンヌ、さらにブラックやピカソはキュビスムの分野を開拓し、
芸術の至上意義である「感動」の美術における終焉を担った。
19世紀半ばの他のフランスの画家らと同様に、
カイユボットは写真機と"ジャポニスム"の洗礼を受けた。
現代のいわゆる広角レンズによる
コンパクト・カメラが切り取る世界が、
浮世絵の世界とほぼ重なるのである。
パンフォーカス的で平面的な描写、
スナップ写真的な画面の切り取りかた、
さらには大胆な構図(ズームアップおよびパノラマ、
俯瞰、低位置から見上げる構図)、デフォルメ。
さて、
前述の「カイユボット展」では、
ありふれた題材ながら
ジュヌヴィリエの風景を描いた諸作や、
「キンレンカ」、「ヒナギクの花壇」、
「上から見下ろした大通り」など、
カイユボット好きにはたまらないものが展示されてた。が、
やはり何といっても、1876年制作の
"Le Pont de l'Europe(ル・ポン・ドゥ・ルロプ=ヨーロッパ橋)"
(ジュネーヴのアソスィアスィオン・デ・ザミ・デュ・プチ・パレ所蔵)
が目玉だっただろう。
印象派が"風景画を描くように"なって、
橋もその題材とされるようになった。が、
離れた位置から橋全体を描くことはあっても、
この絵のように橋にさしかかった地点から
橋を中心にした視点で眼前に広がるものはほとんどない。
日本画でも同様で、俯瞰図や横から全体を眺めたものは多いが、
橋の上を近くからの視点で描いたものは少ない。が、
その代表的なものは超有名な、
歌川広重の「(東海道五十三次の)日本橋」である。ちなみに、
終着の京師(京都)三条大橋の斜め上からの
俯瞰との対比の妙が粋である。
この版画絵の日本橋は現在の橋とはやや位置が異なるが、
概ね同じと考えてさしつかえないので、
現在の橋に置き換えて話を進める。
現在の中央通りが東海道と思っていただいて結構である。
橋の南詰方面(白木屋側)から北詰(三越側)方向を見た図である。
南詰の西側に高札があり、その先に河岸があり、
仕入れた魚や青物を天秤棒に担いで橋のたもとまでやってきた
魚屋八百屋連中が、おりしも、
北詰方面から東海道に向かって国許に戻る大名の行列が
アーチを描く橋のに延々と連なってきてしまったので、
こんちくしょう、間が悪りーな、とばかりに、
河岸方面に退いてるところである。
日本橋より北側に上屋敷がある西方面の大名といえば、藤堂や立花など
数少ないのでどの大名の行列かは推定できるかもしれない。が、
京本政樹と秋野暢子女史の顔を暁七つには判別できない
拙脳なる私には特定できない。ともあれ、
西国大名の参勤交代は基本的に3月4月(現在の4月5月)である。
陰暦では夏でも冬でも夜明けが明け六つなので、
それなりにおてんとさんは出てる時刻である。
遠景に朝焼けの赤い空が描かれてる。それと対照的に
手前には開けられた木戸が大きく描かれ、
開けられたばかりの早朝という感じをかもしだしてる。
カイユボットも含め、当時のパリのフランス人画家連中は
木戸というものを知らなかったに違いない。ともあれ、
画面右手前には犬が描かれてる。当時は
主殺し・女犯僧・心中者(生死を問わず)が晒された
晒し場だったところである。
それも知らなかっただろう。が、いずれにしても、
この版画絵の時代が1830年代だということは認識してただろう。
大名という、フランス人にしたら騎士貴族身分と解される一行と
魚屋や八百屋といった庶民、さらに
犬というペット小動物が同じ橋やそのたもとを行き交う、
という"時代"は感じたかもしれない。別ヴァージョンの「日本橋」では、
南詰にもっと多くの江戸商人・旅人らがいるが、
基本は同じである。
以上がざっと広重の「日本橋朝之景」である。いっぽう、
カイユボットの「ヨーロッパ橋」は、手前右から、
いわゆるウィーン通り、マドリード通り、コンスタンティノープル通り、
向こう左から、サン・ペテルブルク通り、リエージュ通り、ロンドル(ロンドン)通り、
という6つの通りが収斂して広場になってる箇所なので、
ヨーロッパ橋という名が附いてる。
その下にはもうすぐ南にサン・ラザール駅となる線路が走ってる、
というロウケイションである。つまり、
この絵は南南西から北北東に向かった視線で描かれてる。
画面向かって右手の、欄干に肘をついてる男は
サン・ラザール駅を眺めてる、ということになる。が、
カイユボットは人物や犬や欄干の影の向きや長さを統一してないので
太陽が高い位置にも思えるし、それほどでもないともとれる。つまり、
整合性がなく、時間帯や季節がいまいち判然としない。ともあれ、
手前に誇張された上下欄干の各平行線はいずれも、
シルクハットの男性の顔に消失する。この男性の顔はカイユボット自身なので、
この絵は風変わりな自画像とスキャンすることもできる。
ともあれ、
1)橋の上をほぼ正面から(南詰から)近景で描いてる共通点
2)手前に開いてるデフォルメされて大きく描かれた木戸、に対し、
手前に寄るほどにデフォルメされて大きく描かれた欄干、
3)橋の上やたもとにさまざまな身分(階層)の人物が配されてる共通点
4)にもかかわらず誰一人目線を合わせてないという共通点
5)画面手前に犬が描かれてる共通点
という、実に多くの類似した特徴が広重からカイユボットの脳に
インスパイアされてちりばめられてる。
ジャポニスムの塊なのである。マネやカイユボットの絵は、
意図も寓意も思想もなく、ただだた、庶民受けするような
心地好い明るい彩りで見てくれだけを糊塗した
安っぽいモネの絵とは、まったく違うのである。
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