[塵ほどの、心にかかる、雲もなし。けふを限りの、夕ぐれの空]
[願はくは、のちの蓮の、花のうへに、くもらぬ月を、見るよしもがな]
江戸後期から明治初めにかけて生きた尼僧の辞世2首である。
あまりに平易な語で詠われてる。
誠(のぶ)=大田垣蓮月(おおたがき・れんげつ)女史は、
西洋ではフランス革命のまっさなか、モーツァルトが死んだ年、
日本では松平定信の絶頂期に生まれた。
7代め市川団十郎と同い年である。
津藩藤堂家の一門(高虎の従兄弟の家系)で伊賀上野城代を務めてた
藤堂良聖(よしきよ)の私生児として、蓮月は生を受けた。といって、
母親が身分卑しい身だったわけではないようである。
蓮月を産むと、丹波亀山藩の藩士に嫁いだからである。
蓮月は生まれてすぐに、父の碁仲間だった
知恩院寺侍の大田垣光古(みつひさ)の養女となる。そして、
蓮月が7歳のときに実父は31歳で死ぬ。その年から約10年間は、
蓮月は実母が嫁いだ丹波亀山で見習奉公をする。が、
その間に養父光古の実子はすべて死んでしまう。よって、
光古の養子と蓮月は娶される。一男二女をもうけるが、
みな夭折してしまう。夫も蓮月が25歳のときに死ぬ。その4年後、
彦根藩士の部屋住みから大田垣家の養子にあらたに迎えられた者と
再婚させられる。そして、一女を授かる。が、
二度めの夫も婚姻後4年で死ぬ。
そこで、
蓮月は養父とともに仏門に入った。
養父は知恩院内の庵の守役を命じられて蓮月母娘とともに移り住む。が、
2年後に蓮月の娘が死に、さらに2年後に養父も死ぬ。そして、
蓮月は知恩院を離れて岡崎に住む。その後、転々と居を変えた。
蓮月は引越し好きで"屋越し蓮月"と言われたそうである。が、
ストーカーから逃れたためかもしれない。なぜなら、
蓮月は超美人だったらしいからである。あまりにも
男に言い寄られるので、釘抜きで歯を抜いて自らの容姿を
醜くして、男に惚れられないようにした、という伝説もある。ただし、
その歌からは、けっこう自身も男好きだったようにも思われる。
18歳の富岡鉄斎を自宅に住まわせて"教育"した、
ということにも、それが窺われる。
ともあれ、
知恩院を出たからには先立つものが要りようになった。そこで、
岡崎(現在の京都の高級住宅地、京都大学がある)での生活では
粟田焼に勤しみ、陶器に自作の和歌を記した
「蓮月焼」を生み出したのである。それがいい日銭になったという。
その和歌であるが、当時はすでに幕末であり、
文学表現をするには古代の遺物にすぎなくなってた。だから、
深く心を打つような歌はない。辞世2首も、陳腐の典型である。
とはいえ、4人の子と2人の夫に先立たれた人生には、
憐憫の情を禁じ得ない。
[塵ほどの、心にかかる、雲もなし。けふを限りの、夕ぐれの空]
では、「まったく心残りはない生涯だった」と言ってるそのいっぽうで、
[願はくは、のちの蓮の、花のうへに、くもらぬ月を、見るよしもがな]
では自らの号[蓮][月]を鏤めながら、
「できることなら極楽往生して、お釈迦様のように蓮の花の上で、
曇りひとつない月を見る手立てがあったらなぁ。でも、
そんなことは夢のまた夢、私にはあり得ないことであるよ」
という諦観を強く示してるのである。
ただし、
和歌などという、すでに時代にそぐわない形の
文学表現を採ったものの、
大田垣蓮月の偉いところは、慈善の精神である。
飢饉のときには私財をなげうって寄付し、
自費で鴨川に丸太町橋を架けたという。
親身なフリをして口先だけで
「被災者の方々の一刻も早い回復を祈ります」
と言いながら、ひとたびカメラの前から離れれば、
無愛想な険のある目つきで街を歩く輩とは大違いである。
[願はくは、のちの蓮の、花のうへに、くもらぬ月を、見るよしもがな]
江戸後期から明治初めにかけて生きた尼僧の辞世2首である。
あまりに平易な語で詠われてる。
誠(のぶ)=大田垣蓮月(おおたがき・れんげつ)女史は、
西洋ではフランス革命のまっさなか、モーツァルトが死んだ年、
日本では松平定信の絶頂期に生まれた。
7代め市川団十郎と同い年である。
津藩藤堂家の一門(高虎の従兄弟の家系)で伊賀上野城代を務めてた
藤堂良聖(よしきよ)の私生児として、蓮月は生を受けた。といって、
母親が身分卑しい身だったわけではないようである。
蓮月を産むと、丹波亀山藩の藩士に嫁いだからである。
蓮月は生まれてすぐに、父の碁仲間だった
知恩院寺侍の大田垣光古(みつひさ)の養女となる。そして、
蓮月が7歳のときに実父は31歳で死ぬ。その年から約10年間は、
蓮月は実母が嫁いだ丹波亀山で見習奉公をする。が、
その間に養父光古の実子はすべて死んでしまう。よって、
光古の養子と蓮月は娶される。一男二女をもうけるが、
みな夭折してしまう。夫も蓮月が25歳のときに死ぬ。その4年後、
彦根藩士の部屋住みから大田垣家の養子にあらたに迎えられた者と
再婚させられる。そして、一女を授かる。が、
二度めの夫も婚姻後4年で死ぬ。
そこで、
蓮月は養父とともに仏門に入った。
養父は知恩院内の庵の守役を命じられて蓮月母娘とともに移り住む。が、
2年後に蓮月の娘が死に、さらに2年後に養父も死ぬ。そして、
蓮月は知恩院を離れて岡崎に住む。その後、転々と居を変えた。
蓮月は引越し好きで"屋越し蓮月"と言われたそうである。が、
ストーカーから逃れたためかもしれない。なぜなら、
蓮月は超美人だったらしいからである。あまりにも
男に言い寄られるので、釘抜きで歯を抜いて自らの容姿を
醜くして、男に惚れられないようにした、という伝説もある。ただし、
その歌からは、けっこう自身も男好きだったようにも思われる。
18歳の富岡鉄斎を自宅に住まわせて"教育"した、
ということにも、それが窺われる。
ともあれ、
知恩院を出たからには先立つものが要りようになった。そこで、
岡崎(現在の京都の高級住宅地、京都大学がある)での生活では
粟田焼に勤しみ、陶器に自作の和歌を記した
「蓮月焼」を生み出したのである。それがいい日銭になったという。
その和歌であるが、当時はすでに幕末であり、
文学表現をするには古代の遺物にすぎなくなってた。だから、
深く心を打つような歌はない。辞世2首も、陳腐の典型である。
とはいえ、4人の子と2人の夫に先立たれた人生には、
憐憫の情を禁じ得ない。
[塵ほどの、心にかかる、雲もなし。けふを限りの、夕ぐれの空]
では、「まったく心残りはない生涯だった」と言ってるそのいっぽうで、
[願はくは、のちの蓮の、花のうへに、くもらぬ月を、見るよしもがな]
では自らの号[蓮][月]を鏤めながら、
「できることなら極楽往生して、お釈迦様のように蓮の花の上で、
曇りひとつない月を見る手立てがあったらなぁ。でも、
そんなことは夢のまた夢、私にはあり得ないことであるよ」
という諦観を強く示してるのである。
ただし、
和歌などという、すでに時代にそぐわない形の
文学表現を採ったものの、
大田垣蓮月の偉いところは、慈善の精神である。
飢饉のときには私財をなげうって寄付し、
自費で鴨川に丸太町橋を架けたという。
親身なフリをして口先だけで
「被災者の方々の一刻も早い回復を祈ります」
と言いながら、ひとたびカメラの前から離れれば、
無愛想な険のある目つきで街を歩く輩とは大違いである。
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