私がまだガキだった頃、TVでナツメロ番組をやると、
燕尾服にロイド眼鏡、逆立つ髪に直立不動で歌う、
飛び抜けて歌のヘタクソな歌謡歌手が出てきたものだった。が、
そのヘタクソさはヘタウマというか、味があった。
東海林太郎(しょうじ・たろう)(1898-1972)である。
高田浩吉主演の国定忠治映画の主題歌として
昭和9年に発売された「赤城の子守唄」が印象深かった。
[泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が またさわぐ
坊や男児だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか
お月さまさえ ただひとり
泣かずにいるから ねんねしな
にっこり笑って ねんねしな
山の土産に 何をやろ
どうせやくざな 犬張子
貰ってやるから ねんねしな]
東海林太郎もこの歌を気に入ってて、
TVで歌うときに2番以下が省略されることを
突っぱねたという。今年の紅白歌合戦に
初出場する植村花菜女史も、その
10分近くかかる持ち歌をカットなしで
歌わせてほしいと言ってたようである。ちなみに、
同女史の「トイレ神様」と月亭可朝の
「嘆きのボイン」の違いが判らない拙脳なる私には、
なぜ便器を毎日ピカピカにしてると別嬪さんになれるのか、
セッチンだからベッピンという地口なのかもしれないが、
その根拠がつかめない。ともあれ、
東海林太郎はダジャレと酒豪で知られてた。が、本人曰く、
「こっそりトイレで吐いてた」らしい。ところで、
かつて慶大にトイレットペイパーに詳しく、
「トイレットペーパーの文化誌」という著書もある
西岡秀雄という教授がいた。現在97歳である。いっぽう、
植村女史によれば、トイレには神様がいるらしい。たしかに、
トイレには紙様がいる。
おばあちゃんとトイレ、というキーワードから、
紙で婆(ばば)=ババ(ウンチ)を→拭く。
あるいは、ウグイスはホトトギスに托卵される。
ホトばしり→きれいに拭く→ホト研ぎ澄ます
→ウグイスの糞でエエ女になれる。ちなみに、
東海林太郎はS字結腸癌で人工肛門だった。種々の不便も
生じたろうと思われる。
「赤城の子守唄」が大ヒットして流行歌手になった東海林太郎は、
その前年に35歳でデビューしてる。子供の頃、
学友に借りたヴァイオリンを弾いてその魅力にとりつかれ、
東京音楽学校(現在の芸大)のヴァイオリン科に合格したものの、
秋田県庁職員から満鉄社員になった父の猛反対で音楽家になれず、
早大商学部を出てやはり満鉄に入る。が、早大時代に傾倒した
左翼思想が疎まれて冷や飯を食わされる。ちなみに、
後に歌謡歌手になってから、
東京音楽学校出の藤山一郎とは犬猿の仲だったという。
年下の藤山の不遜な言動が多く伝えられてる。
歌のヘタさでは共通してるが、藤山のオンチの極みには
東海林では太刀打ちできない。ともあれ、満鉄退社後、
早大前で弟と北京料理店「東瀛閣」を開店した。が、
経営はうまくいかずにつぶれ、
歌のコンクールを受けて歌手の道が開けた。ときに、
「東瀛閣」の「東瀛(とうえい)」の「瀛(エイ)」とは、
「海」のことである。つまり、
「東瀛閣」は「東海閣」。東海林という名字とかけた、
太郎のダジャレである。ともあれ、「瀛」という字に関しては、
大海人皇子(天武天皇)の異称にも、
「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」
というものがある。ここでは「沖」の意味に
おきかえられてる。また、秦の始皇帝の"姓"は、
この文字からさんずいをとった字である。で、
「東瀛」とは東方の海、東海のことである。また、
支那からみて東方の海、つまり、日本・日本人のこともいう。
東海林太郎は大学時代に左翼思想を植えつけられたが、
自身の頭と体験で立ち直り、道を誤らなかった。そして、
日本人のために歌ったのである。
小沢と仙石の本人あるいは手下どもの
"内ゲバ"舌戦が喧しい日本民主党の左翼どもとは違う。
東海林太郎は歌うとき、その場で死んでもかまわない、
という覚悟で臨んでたという。
「一尺四方のステージは真剣勝負の歌の道場」
と言ってたそうである。そして、
「一唱民楽」
尊敬してたという宮本武蔵の「一剣護民」をもじったものである。
武蔵がその剣で民を護ったためしはなかったが、
東海林太郎がその歌で昭和の人々を楽しませたのは確かである。
燕尾服にロイド眼鏡、逆立つ髪に直立不動で歌う、
飛び抜けて歌のヘタクソな歌謡歌手が出てきたものだった。が、
そのヘタクソさはヘタウマというか、味があった。
東海林太郎(しょうじ・たろう)(1898-1972)である。
高田浩吉主演の国定忠治映画の主題歌として
昭和9年に発売された「赤城の子守唄」が印象深かった。
[泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が またさわぐ
坊や男児だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか
お月さまさえ ただひとり
泣かずにいるから ねんねしな
にっこり笑って ねんねしな
山の土産に 何をやろ
どうせやくざな 犬張子
貰ってやるから ねんねしな]
東海林太郎もこの歌を気に入ってて、
TVで歌うときに2番以下が省略されることを
突っぱねたという。今年の紅白歌合戦に
初出場する植村花菜女史も、その
10分近くかかる持ち歌をカットなしで
歌わせてほしいと言ってたようである。ちなみに、
同女史の「トイレ神様」と月亭可朝の
「嘆きのボイン」の違いが判らない拙脳なる私には、
なぜ便器を毎日ピカピカにしてると別嬪さんになれるのか、
セッチンだからベッピンという地口なのかもしれないが、
その根拠がつかめない。ともあれ、
東海林太郎はダジャレと酒豪で知られてた。が、本人曰く、
「こっそりトイレで吐いてた」らしい。ところで、
かつて慶大にトイレットペイパーに詳しく、
「トイレットペーパーの文化誌」という著書もある
西岡秀雄という教授がいた。現在97歳である。いっぽう、
植村女史によれば、トイレには神様がいるらしい。たしかに、
トイレには紙様がいる。
おばあちゃんとトイレ、というキーワードから、
紙で婆(ばば)=ババ(ウンチ)を→拭く。
あるいは、ウグイスはホトトギスに托卵される。
ホトばしり→きれいに拭く→ホト研ぎ澄ます
→ウグイスの糞でエエ女になれる。ちなみに、
東海林太郎はS字結腸癌で人工肛門だった。種々の不便も
生じたろうと思われる。
「赤城の子守唄」が大ヒットして流行歌手になった東海林太郎は、
その前年に35歳でデビューしてる。子供の頃、
学友に借りたヴァイオリンを弾いてその魅力にとりつかれ、
東京音楽学校(現在の芸大)のヴァイオリン科に合格したものの、
秋田県庁職員から満鉄社員になった父の猛反対で音楽家になれず、
早大商学部を出てやはり満鉄に入る。が、早大時代に傾倒した
左翼思想が疎まれて冷や飯を食わされる。ちなみに、
後に歌謡歌手になってから、
東京音楽学校出の藤山一郎とは犬猿の仲だったという。
年下の藤山の不遜な言動が多く伝えられてる。
歌のヘタさでは共通してるが、藤山のオンチの極みには
東海林では太刀打ちできない。ともあれ、満鉄退社後、
早大前で弟と北京料理店「東瀛閣」を開店した。が、
経営はうまくいかずにつぶれ、
歌のコンクールを受けて歌手の道が開けた。ときに、
「東瀛閣」の「東瀛(とうえい)」の「瀛(エイ)」とは、
「海」のことである。つまり、
「東瀛閣」は「東海閣」。東海林という名字とかけた、
太郎のダジャレである。ともあれ、「瀛」という字に関しては、
大海人皇子(天武天皇)の異称にも、
「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」
というものがある。ここでは「沖」の意味に
おきかえられてる。また、秦の始皇帝の"姓"は、
この文字からさんずいをとった字である。で、
「東瀛」とは東方の海、東海のことである。また、
支那からみて東方の海、つまり、日本・日本人のこともいう。
東海林太郎は大学時代に左翼思想を植えつけられたが、
自身の頭と体験で立ち直り、道を誤らなかった。そして、
日本人のために歌ったのである。
小沢と仙石の本人あるいは手下どもの
"内ゲバ"舌戦が喧しい日本民主党の左翼どもとは違う。
東海林太郎は歌うとき、その場で死んでもかまわない、
という覚悟で臨んでたという。
「一尺四方のステージは真剣勝負の歌の道場」
と言ってたそうである。そして、
「一唱民楽」
尊敬してたという宮本武蔵の「一剣護民」をもじったものである。
武蔵がその剣で民を護ったためしはなかったが、
東海林太郎がその歌で昭和の人々を楽しませたのは確かである。
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