チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「悲愴の『666』【蜜と唾】とモース信号」

2005年04月06日 15時51分45秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
ロシアの文豪ダスタイェーフスキィの小説に、
「プリストゥプリェーニエ(罪)・イ(と)・ナカザーニエ(罰)」
というものがあるそうである。カネに困った大学生、
ラヂオーン・ラマーナヴィチ・ラスコーリニカフが、
金貸しの婆さんのドタマを金の斧・銀の斧・鋼鉄の斧で、
大河内傅次郎ふうな声色を使って3度かち割るのだが、
清い自己犠牲の心で生きてるかわいそーにゃ売春婦によって改悛する、
というお話らしい。わたしゃ、それより、六本木あたりで働いてる
ソーニャちゃんと体じゅうに蜜と唾を塗りあいっこしたうえで、
「算盤」責めプレイされたいである。ときに、「ソーニャ」ってのは
「ソーフィア」の愛称だから、日本人に置き換えればさしずめ「智恵」
「智ちゃん」ってところだろうが、綾戸智恵女史似の子だけはよしとくれ。
ところで、ロシア人の名は、「個人名・父称・家族名」という3点セット、
なんだそうである。この主人公の3点セットのそれぞれの頭文字は、
「р(エール)」「р(エール)」「р(エール)」、つまり、
「ррр」である。
これを横から串刺しにして炙り、串を軸にして180度回転させれば、
「666」。おいちょかぶなら「嵐」という「役」であるが、
ヘブライ語の文字に照らすと、キリスト教を弾圧した
「暴君ネロ」の名にあてはまる、のだそうである。これは、
某ホラー映画で、「悪魔の子」デイミアンの頭部にある凹面の窪みに
刻まれてた「666」というアザでよく知られるようになったお話であるが、
「6」はアルファベットの「b」と「同型対応」である。
変記号の「♭」もまた同じ。ときに、モース信号で、
「b(ビー、ベー)」は「長短短短(dah-di-di-dit)」。
この律動は「短短短長」という「運命はかくのごとく扉を叩く」
と「同じ」である。ちなみに、モース信号で「短短短長」は「v」。
いっぽう、チャイコフスキーが「悲愴」を献呈したのは、
妹アリクサーンドゥラの次男ヴラヂーミルである。その頭文字は、
英語仏語ふうには「v」である。また、チャイコフスキーがその甥に
つけてた愛称は「ボービク(愛犬)」、それを簡略化した「ボブ」で、
頭文字の音は「b」である。
さて、ひとたびでも「悲愴」を聴けば、普通程度の頭のヒトならば、
そこには「奇矯」な律動がいくつか出てくることに気づくはずである。
・主章対主題呈示後のモデラート・モッソ部で弦がサルタンドに跳ね、
展開部で上昇する音型に現れる「長短短」。
これはモース信号では「d」である。
ボブの「家族名」「ダヴィーダフ」の頭文字である。やはり、
「6」「р」「b」「♭」などと「同型対応」である。また、
・主章再現部しょっぱなでホルンに現れる「短長長」。
これはモース信号では「w」であり、
ヴラヂーミルの独語ふう頭文字である。そして、
・終章対主題を導くホルン(2度めはコンバス)に現れる「短長」。
これはモース信号では「a」であり、
ボブの母親にしてチャイコフスキーの妹、かつまた、
チャイコフスキーの母親の名でもあるアリクサーンドゥラの
頭文字である。そのチャイコフスキーの母親の結婚前は、
「アリクサーンドゥラ・アンダリェーェヴナ・アッスィエール」。
「ааа」である。この「а」(「a」)もまた「р」と「同型対応」である。
チャイコフスキーの音楽の原点は、母親が弾いたり歌ったりしてくれた
「3拍子」の舞曲である。その母との別れ、がキーなのである。
10歳で帝立法律学校の寄宿舎に→遠ざかっていく母を乗せた馬車
→チャイコフスキー14歳時、コレラによる母のむごたらしい死
→神格化していた母の最期の悲惨さ→美から醜へ→女性に対する嫌悪、
というチャイコフスキーの少年期の悲しみやトラウマを考えると、
遺伝子的形質による同性愛嗜好とともに、この母親との関係は重要である。
この母親が産んだ子は、チャイコフスキーを含めて「7」人。が、
「一姫」は生まれてすぐに死亡。成長した子は「6」人である。
「悲愴」主章提示部最後の強弱記号p「6つ重ね」は、
ファゴットで吹くのが困難だからバスクラリネットで代用させる指揮者が多い。
が、単なる強弱記号の(マイナスの)強調的な使いかたなのではなく、
チャイコフスキーの「6」という数へのこだわりなのである。
「モーツァルトの『死の調性=ニ短』(モツレク、ドン・ジョバ)」の主音「d」が、
「pppppp」(=「ррр」^2)で引きのばされ(フェルマータ)、
間髪なく次の、「悪魔の数字『666』=『♭3つの調』=変ホ長」
の主音「Es」の強打(ff)」、に繋がるのである。
「ppとppppppの違いが出せるわけがない」
というスタンスが愚かなのは、じつに「皮相」な思考だからである。
ルバング浦島から帰還した小野田少尉のように、しゃべるときには必ず
口元に【唾】が溜まってしまうたちだったプラコーフィイフくらいになると、
それに気づいてたかもしれない。
「【3つ】のオレンジ・レンジへの恋」の有名な「行進曲」冒頭に、
「d→es」という「ミチシルベ」を残してるのは、
その意図を感じ取ってたうえでの所業かもしれない。

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