チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「幸せーって何だーっけなんだーっけ?/お初・徳兵衛の場合」

2010年02月24日 23時53分42秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
坂本龍馬が殺されたのは京都の
「近江屋」だった。現場は
惨憺たるありさまだった、らしい。
としか言い表せない。というのも、
記録・証言が嘘っぽいからである。隠蔽されたから、
「犯人」は誰だか判らないのも当然である。それはともあれ、
「近江屋」は醤油屋だった。

ところで、
寒い気候の国のわりには女子カーリングでは
フィンランドはあまり強くない。日本よりランクが下である。
フィンランド人が話すフィンランド語はウラル語族なので
東洋系なのだという。たしかに、
スキー・ジャンプには個人のメダルが欲しくて復帰した
アホネンという選手がいたし、毎日、ジャンプの練習を欠かさない
ニッカネンなんていう金メダリストもいたし、
ハウタマキなんていう黒装束で三味線を持って義太夫を歌いだしそうな
故浅川マキ女史の元祖みたいな選手もいる。いっぽうで、
ケッコーネンという大統領もいたし、
ウコンマーンアホなんていう商売人もいる。が、
キッコーマンという名のフィンランド人は聞いたことがない。ともあれ、
Suomi(スオミ)などと言われると、中森明菜女史と森昌子女史の
横顔の判別もままならない拙脳なる私は、それを
イタリア語だと勘違いしてSuo(あなたの) mi(私を)なんて
取り違えてしまうし、フィン人なんて
手にヒレがついてる人だと思い込んでたのである。

先週の金曜19日の夜は、
隼町の国立劇場へ人形浄瑠璃を観にお姉さんといっしょに出かけた。
とざーーーい!
5日初日・21日千秋楽の文楽二月公演である。
吉田蓑助文化功労者顕彰記念、というサブタイトルが附されてた。
76歳。しかも、12年前に脳出血で倒れた体である。
徳兵衛を操る桐竹勘十郎は観たことがあるのだが、
その師匠の吉田翁を観るのはお初だった。が、実は私は
人形浄瑠璃を観に行くいちばんの楽しみは
人形よりもそれを操る人形遣いの動きを観ることにある。

出し物は「曽根崎心中」である。
「生玉社前の段」「天満屋の段」「天神森の段」
で、休憩を挟んで約2時間。どの段もおもしろいのだが、
「天満屋の段」で悪人九平次がお初の死ぬ覚悟と恫喝に恐れをなして
すごすごと天満屋をあとにする、

<「こりゃちと相場が狂ふたさうな。これのお初は変わり者。
 おれがやうに銀使ひのよい大尽様はお嫌いさうな。
 あさ屋へ寄って一杯しよう。皆もおれと一緒に来い。
 あああ、かう懐が重たうては歩きにくいで、
 へへ、困りやんす」
 と悪口だらだら云ひ散らし、わめいてこそは帰りけれ>
(現在版)

というところで、三味線が、西洋音楽ふうに譬えれば、
♪●ソソソ・>ミーーー♪
という音型を奏でる。ベートーヴェンの交響曲第5番、
第1楽章の展開部に突入するかの如くである。

ともあれ、
やはり「天神森の段」が見せ場である。
冒頭の三味線の"ユニゾン"と、
<この世のなごり、夜もなごり。
 死にに行く身をっとふれば>
という唄の"ユニゾン"が、なんとも厳かである。
<あだしが原の道の霜。
 一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。
 あれ数ぐれば、暁の、七つの時が六つ鳴りて、
 残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め>

この噺は、元禄16年(西暦1703年相当)4月7日、
大阪の曽根崎にある露天神の森での、
堂島新地の遊女初と醤油屋の手代徳兵衛の
実際の相対死事件がもとになってるらしい。そして、
事件からたった1箇月後の
【5月7日】に、竹本座で初演されたという。作者、
近松門左衛門こと杉森信盛は"武士"である。が、
父は、松平の中の松平、越前松平家の家臣だったが、
お家の諸事情(いろいろあって手短には書けない)で
今ふうにいう"リストラ"されて浪人してしまった。ともあれ、
"近松門左衛門(ちかまつもん・さえもん(※))"などという
みょうちくりんなペンネイムは、
なにやら曰くありげである。一説には、
「近江」の近松寺で修行をしたから、
というものがあるようである。が、
田中康夫と米良美一の顔の違いを判別できない
拙脳なる私には、その由緒を推測することすらできない。
徳川の一門(越前)松平家に近い者、
くらいしか思い浮かばない。その
近松の代表作の「曾根崎心中」の主人公が
「徳」兵衛というのだから、ますます、
意味がありそうである。いっぽう、
「初」は浅井三姉妹のまんなかである常高院であり、
豊臣と徳川の仲介役をつとめた。嫁いだ京極高次は、
若狭小浜を領した。越前の隣である。

さて、
露天神社の祭神の一人は、
「菅原道真」である。この天神がある場所は、むかし、
曽根州という大坂前の島で祠があり、
住吉住地曽根神として祀ってたという。"伝説"によれば、
菅原道真が太宰府へ左遷される途中にこの地で
京を偲んで涙を流したから「露」と呼ばれるようになった、
そうである。ちなみに、
秀吉の辞世とされてる、
「つゆとをち、つゆときへにし、わかみかな。
 なにわのことも、ゆめのまたゆめ」
が因縁めいて聞こえてくる。秀吉が死ぬのは伏見城だが、
大坂城は曾根崎からも近いのである。そして、その
大坂城が堕ちるのは、秀吉の死から17年後の慶長20年(西暦1615年)、
【5月7日】。家康の次男秀康の長男、弱冠20歳の
松平忠直率いる越前勢が大坂城一番乗りを果たすのである。
江戸時代初期、この忠直卿の広大な屋敷が
現在の六本木交差点周辺にあった。松平三河守忠直。よって、
「三河台」という名がいまも僅かに残ってるのである。
三河台にあたるエリアには醤油ラーメンの名店が多いらしい。そして、
六本木にはキッコーマンはなくても、夜になれば
キッコーシバリが大活躍するのである。恐縮ながら、私は
ヒゲタ派である。
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