チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「語意の空騒ぎ(道理と通り篇)」

2013年04月28日 23時46分08秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
今日はなんだかずいぶんと"清々した"日である。
なにかイヤなものがひとつ国内から消え失せたとか、
遠ざかったとか、そんな晴ればれしい気分の日だった。
来る5月4日に生誕100年となる故森繁久弥作の
「知床旅情」を自宅カラオケで唸ってしまった。
先日は森ビル六本木ヒルズが10年を迎えたが、
ハナエモリビルの跡地に建てられたoak omotesandoも
オウプンした。私が中学の頃は、
六本木も表参道も平日の昼間は
人がほとんど歩いてない街だった。まぁ、
40年も前の話だから、変わって当然だが。

中学生のときに"文庫を読みあさった"私ではあるが、
反日の共産主義者が経営してる岩波書店が嫌いなので、
「岩波文庫」はその限りではなかった。が、
理由はそれだけではない。同文庫は
旧字体・歴史的仮名遣いだったのである。
専門書でもない、大衆向けのものなのに。
旧字体・旧仮名遣い自体が嫌いとかいけないとか
言ってるのではない。
新字体・現代仮名遣いで育った私にとっては
読みづらいこときわまりないものだった。
いわゆる「現代仮名遣い」は間違ってる、
ということを主張するむきがあった。が、
このことは正誤を論じても不毛なのである。
右側通行から左側通行に変更されたのにもかかわらず
かたくなに左ハンドルだから右側通行で走らせるのが正しいなどと
言ってるのと同じことなのである。

現代人が
「ボクは交響曲を作りたい」
というのは、
「ボクは万葉集の歌を詠みたい」
というのと同じで、たとえそれが
どれほど万葉集のマの字も解らない大衆を感動させたとしても、
万葉集の秀歌を集めて溶かしたものをまた
万葉集ふうの鋳型に流し込んで固めた
二番煎じにすぎないのである。すでに
特許申請がなされてるものと同じものを
"発明した"と叫ぶようなものである。そんなものに
価値などあろうはずもない。
クラ音の旋律・和声はすでに出尽くされてる。
おおむねブルックナー・チャイコフスキーで終わりなのである。
教会旋法を持ち出した時点で完璧に限界を迎えた。だから、
20世紀以後いっさいの"音楽創作物"なるものも、
二番煎じ・亜流・剽窃でしかないのである。そんなことは、
クラ音に関わり始めるガキのときに解るものである。
現代人が"クラスィカル・ミューズィク(調性音楽)"を作曲、
なんていうのはナンセンスなのである。そんなものは、
エセなのである。

"エッセイスト"なる肩書きの某国立大在学生がいる。
この人物の文章はおそろしく貧困である。
語法のひどさは手の施しようがない。
その一例である。
twitterでのツイートにこのようなものがあった。
<大学の帰り。
食堂のおじさんと一緒になった。
休日でも大学が空いてたのは、 大学院のしけんがあったからとのこと。
通りで人がいると思った。>
1文めは、体言止めの技法を駆使されてる。
筆者の大学からの帰り道のことだろうか。
2文めは、大学の食堂の職員男性と帰り道が一緒だったということだろうか。
3文めは、決定的に真っ当な物書きの文章とは対極である。
大学が空いていたのは、というのは、
大学の食堂が開いていた、という意味だろうか。
開を空としてしまったのは単純な文字変換上の不注意であろう。
緻密でない性格そのものは物書き不適正というわけではない。
それにしても、大学院の試験の日に食堂を開けるとは、
国民の税金で多大に助成されてる国立大はずいぶんと
余裕ある経営をしてるものである。そして、
授業がない曜日に筆者が大学にでかけたということは、
学生のために大学が日曜でも何らかのサーヴィスを行ってるということである。
物書きの教養およびセンスの両面からも致命的なのは最後の文である。
"通りで"……これはおそらく"道理で"のことだろう。
前の"開"を"空"としたミスは単なる不注意のミスだが、こちらは
根本的に違う。

"道理"を"どおり"と普段から間違って表記してるからに他ならない。
小学校低学年で教わる、現代日本語のごく初歩的な
「決まりごと」である。同人は
日米のハーフで幼少期はNYで暮らしてたという。が、
親の離婚で日本人である母親らと日本に来たのが6歳のときらしい。
とすれば、日本の小学校で学習してるはずである。
アメリカン・スクールだったらその限りではないかもしれないが。
こんな程度の人物のエッセイをありがたがる読者に対して無礼である。
無教養をウリにした物書き、と謳えばまだ赦されるかもしれないが。
一般人や外見的にdollyといえる女子なんかが
「女王(ジョオウ)」を"ジョウオウ"、「仕様(シヨウ)がない」を"ショウがない"
と書いたりするのならそれはいたしかたないことである。が、
ひとさまから銭を取るプロの物書きにはあってはならないことなのである。
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