チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「メンデルスゾーン『歌の翼に』と『愛情6度上昇開始』/『見上げてごらん夜の星を』発売から50年」

2013年05月01日 18時34分17秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ
猪瀬東京都知事が反日親中共のNYタイムズの策に
まんまと嵌められた。
政治家に猪突猛進な姿勢はタブーである。まぁ、
もともとイスタンブールに決まってるデキレイスなのだから、
誘致運動費用の無駄遣いに変わりはない。
国際オリンピック委員会から脱退してお詫びする、
とでも言ってやればいいのである。
日本からはmoneyだけは引き出したいやつらは
日本に抜けられたら困るのである。
懐柔策として東京に決定するかもしれない。ともあれ、
都バスを24時間営業させるよりも、
土日祝日・夜間も平日日中と同様に
24時間やってる病院をこそ作るべきである。

金儲け上手なユダヤ人銀行家の家に生まれた
Felix Mendelssohn(フェーリクス・メンデルスゾーン、1809-1847)
の著名曲のひとつに、
"Auf Fluegeln des Gesanges
(アオフ(に乗せて)・フリューゲルン(翼々)・デス(の)・ゲザンゲス(歌)"、
いわゆる「歌の翼に」(op.34-2)という歌曲がある。
(Fluegeln:Fluegelフリューゲルの複数3格)
Heinrich Heine(ハインリヒ・ハイネ、1797-1856)
の詩を歌詞としてる。
この詩もデタラメな日本語訳ばかりが出回ってる。

Auf Fluegeln des Gesanges,
Herzliebchen, trag' ich dich fort,
Fort nach den Fluren des Ganges,
Dort weiss ich den schoensten Ort.
(アオフ・フリューゲルン・デス・ゲザンゲス、
ヘルツリープヒェン、トラーク・イヒ・ディヒ・フォルト、
フォルト・ナーハ・デン・フルーレン・デス・ガンゲス、
ドルト・ヴァイス・イヒ・デン・シューンステン・オルト)
「(拙大意)歌の翼に乗せて、
僕の最愛の人、お前を連れ去ろう、
ガンジス川の向こう側の不浄とされる不毛の地をめざして。
でもそこがもっとも美しい土地だってことが僕には解るんだ」
trag'←trage(単数一人称現在)
(分離動詞)forttragen=fort(分離の意味)+tragen(運ぶ):連れ去る

という第1連である。
Gesanges(ゲザンゲス)なんていうミョウチクリンな語は、
北原ミレイ女史の「げざんげの値打ちもない」には出てこないが、
「歌」という意味のドイツ語の雅語Gesang(ゲザング)の(単数)2格である。
Gange(ガンゲ=ガンジス川)という地名は、これと
「アンゲス」という韻を踏むことができる貴重な語なのである。ちなみに、
Gangesという語は名詞Gang(ガング)の単数2格でもある。
Gangとは歩み・歩行・道などを表す語なのである。
面倒くさいので第2連以降は省略したが、第2連で出てくる
"die Lotosblumen(ディ・ロートスブルーメン=蓮(ハス)の花)を
<睡蓮(スイレン)>などと訳してるむきがほとんどである。
ハスとスイレンは別物である。インド菩提樹とセイヨウ菩提樹も別物であるが、
シューベルトの「冬の旅」の原詩作者であるミュラーものめり込んだように、
19世前半の時代に生きたハイネもまた東洋(インド)に
何かしらパラダイス的なものを想像したのかもしれない。そこでは
東洋人を召使にして"ご主人様"として何不自由ない生活を送れる、と。

カーストという、アーリア人がインドを支配したときに作り上げた身分制度が
インドには今も根づいてる。そのカーストの最下位はシュードラで
単純労働のような仕事にしか就けない。が、さらにその
カーストという枠組みから弾かれた層がある。日本では
「不可触賎民」と呼んでる。ガンジーは彼らを
「神の子」という呼びかたをしたが、彼らはその偽善性を感じて
そう呼称されるのを嫌うという。シュードラでさえ就かない
汚い・危ない作業をさせられる。カーストの4層からは
人間とはみなされてない。だから、
不可触賎民の女子をレイプしようが殺そうが、
人間でないから警察も相手にしないし、当然に
罪に問われることもない。だから、
昨年、国際的にも話題になったバス内レイプ暴行致死事件も、
旧来の意識下で生きてるカースト上位者には
罪の意識がないか薄いかなので、性的暴行はこれからも
起きやすいのである。そうしたことをも
充分承知したうえで、ミュラーもハイネも
ユダヤ人を含めたコーカソイド(おおむね白人)にありがちな選民思想で、
"インド、最高!"
みたいな憧憬を抱いたのである。

「歌の翼に」(メンデルスゾーン)
「Andante tranquollo
(アンダーンテ・トランクイッロ=歩を進める速さで、平穏に(激高せず)、
6/8拍子、4♭(変イ長調)]
♪【ソ│<ミーミ】・ミ<ファ<ソ│ソーー・>シー、・>ソ│
<レーレ・レ<ミ<ファ│>ミーー・●●♪
しみじみと感じ入ってしまう、じつに上出来な曲である。

アオフタクトの「ソ」で始まり、その6度上の「ミ」と
次小節頭の強拍につながる音型は、
ベートーヴェンの歌曲
"Ich liebe dich(イヒ・リーベ・ディヒ=君を愛す)"の
♪【ソー│<ミーー】>レ・>ドードー│
>シーー<ド・<レー、>ソー│
<ファーー>ミ・・>レーレー│
>ドーー<レ・<ミー♪
にあやかって、「愛情たっぷり6度上昇音型」とでもいうように、
ベートーヴェンの次世代のショパンやシューマンなどが倣った。
有名どころでは、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)の
「愛の夢第3番」がその典型である。また、
アウフタクトではないが、チャイコフスキーの
「ヴァイオリン協奏曲」第1楽章第1主題もまた、第1拍の
「ミ」が6度下の「ソ」という短前打音から繋がってるので、実質、
「ソ」がアウフタクトであるゆえ、ここからも、このコンチェルトが
「愛」(カルメンへのドン・ホセの未練的な思い)であることを
物語ってる。

今年が生誕200年にあたるヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」の
"Brindisi(ブリンディズィ)"、いわゆる「乾杯の歌」は、
Demi-mondaine(ドゥミ・モンデヌ=高級娼婦)のヴィオレッタが開いた
パーティに貴族の紹介でやってきたアルフレードがグラス片手に歌いだす。
demi(ドゥミ=半分の)+monde(モンド=社交界)
とは、男女同数が回する「表」の社交界ではなく、
「男だけ」つまり男女総数の「半分」だけが集う
「裏」の社交界のことである。すなわちそれは、
高級娼婦(お偉い男の愛人)の妾邸で開かれる。
そうした高級娼婦をdemi-mondaine(ドゥミ・モンデヌ)という。
渋々やってきたアルフレードだったが、ヴィオレッタを見て、
たちまちに気変わりがしてしまったのである。
「乾杯の歌」は浮世の憂さ晴らしのどんちゃん騒ぎや酒、そして、
男女の営みを語り、ヴィオレッタとの仲を予感させる
泥臭いワルツとなってる。
♪【ソーッ│<ミー・ーー・ーー│ーー】、・>ソーッ・<ミーッ│ミーッ・>ソーッ・<ミーッ♪
垢抜けなさが身上のヴェルディらしく、【ソ<ミ】を執拗に繰り返す。
いっぽう、タメ歳のヴァーグナーはこの"長6度"をひとひねりして、
♪【ラ│<ファーー・ーー】>ミ│<♯ソーー・ーー<ラ│<♯ラ<シー・ー●♪
と"短6度"で「究極の愛の形である死」を暗示させた。
ラフマニノフと双璧を成す感傷の大家であるリヒャルト・シュトラオスは、
19世紀も終わりという時代になっても、
「ドン・フアン」でこのスケコマシ放蕩野郎が愛を語る相手の主題を、
♪【ソー│<ミーー●・ミーーー│ー】<ファー>ミー(3連符)・>レー>ラー<シー(3連符)♪
として、"決まりごと"をきっちりと守った。が、
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」では、
♪ソー│<ミーッミーッ・ミーッ>レーッ│>ドーー<レ・<ミーッ♪
という節を「愛を語る」場面ではなく、
「僧侶のふりをして説教をたれる」箇所で用いてしまった。
「ツァラトゥストラはかく語りき」でも【ソ│<ミ】主題に愛は語らせなかった。

ポップスでもこの"決まりごと"は踏襲され、
プラターズが歌った"Only you"は、
前駆的に「♯ファ」が第3拍に置かれ、次いで、
第4拍で「ソ」となり、次小節の第1拍で「ミ」となる、
というひと工夫されたものではあるが、
「愛を語る」のに"お決まりごと"の手順をちゃんと踏んでるのである。
ポール・アンカがフランク・スィナトラのために
英語の別の歌詞をつけた"My Way"の元歌であるやはりシャンソンの
"Comme d'habitude(コム・ダビチュド=いつものように)"も、
【ソ│<ミ】で始められる。
1970年代の日曜夜にフジTVで放送されてた、
「どうも~~!」の芳村真理女史司会の
「ラブラブショー」のテーマ曲は、
♪【ソ│<ミー・ーー・・ミー】・<ファ<ソ│>レー・ーー・・ーー、●♪
だった。この番組をきっかけにして
三浦友和&山口百恵、関口宏&西田佐知子なんかが
結婚まで進んだ。

ただし、
"フォーク世代"となると様相は変わる。
一勧の準エリート行員(東大法卒)だった小椋佳は
「さらば青春」という、
♪【ソソ│<ミー・ーー・・ーー・ーー│ーー】・ミミ・・ミミ・>レ>ド│
>シー・ー>ラ・・ーー・ーー♪
なる【ソ│<ミ】音型開始の流行歌を作ったが、
[僕は呼びかけはしない]
と冷たく言い放って色恋沙汰とは無縁な詞を充て、
"決まりごと"は無視した。いっぽう、
財津和夫は「サボテンの花」で、
♪【ソ│<ミミー・ー・・ーー】、・ミ>レ│>ドド・ーー・・ー、>ラ・ラ<ド│
>ラ>ソ・ーー・・ーー・ー♪
「ホンノー、ちいさなー、できごとにー」
という歌詞のようにホンノー的に「愛情6度ジャンプ」の
"お決まり"を使った……かのように思われるが、
「ひとつ屋根の下」で暮らす家族も時間の経過とともに
散りぢりバラバラとなるがごとく、この歌は
「男女の別れ」を歌ってるのである。
♪ゆるしてぇ~~、ちょうだぃっ! である。
(財津は財津でも一郎だったか)
また、
エメロン・シャンプーCMの「ふりむかないで」、
アニメ「サスケ」や「妖怪人間ベム」などの主題歌などの
コーラス歌謡のハニーナイツのヴォウカルだった葵まさひこが作曲して
平浩二が歌った「バス・ストップ」も
♪【ソーーソ│<ミー・ーー・・ーー】、
 ・>ソ<ド<ミ(3連符)│>レ<ミ>レ(3連符)・ーー・・ーー♪
と歌いだすものの、これもまた、
男女の別れをせつなく歌いあげたものである。ちなみに、
歌のタイトルは昭和40年代に阿久悠が米映画のタイトルを
そっくりいただいたのと同様に、
マリリン・モンロウ主演のコメディ映画のタイトルから採ったものである。

ともかくも、
アオフタクトが「ソ」で始まるのは、それが調性上の
「属音」であるから、至極当然なのである。そして、
「属音」→(小節の頭)「主音」
と進めば、「属和音」→「主和音」という
簡易なカデンツを成すことで"曲が確定"するからである。
それが「ド」よりさらに3度高い「ミ」に進めば、
単純に心理的に"弾んだ"心地になるのである。
主和音の第3音である「ミ」は
"長調を確定させる"重要な音である。
長調が「明るい」印象を与えるのは事実である。
そいうったことから、
【ソー│<ミ】
という開始は「愛」という概念と結びつけやすいのである。

ところで、
日航ジャンボ機墜落事故で死んだ坂本九が歌った
「見上げてごらん夜の星を」
のスィングル・レコードは、
50年前の昭和38年(1963年)5月1日に発売された。

♪【ソー│
<ミー・ーミ・・ミー】、・ミ<ファ│<ソー・ーー・・ーー、・>ファ>ミ│
<ファー・ーー・・ファー・ーファ│ファー・ーー・・ーー♪

いずみたくの節は「歌の翼に」が脳に刻まれてて、それが、
指圧を受けてキモチよくなってつい、
♪押せばいのちのいずみたく
のごとく表出してしまったものだろうが、
「愛を語った詞」につける節としてハズしてない。にしても、
この"ラヴ・ソング"の詞を書いたのが
あの容姿の永六輔だと思うと、いささか妙な気分である。
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