チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「小津の魔法数使い/12という小津安二郎のドデカい奇妙な数字」

2013年12月12日 01時02分51秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ

小津安二郎 数字 12


本日は、1863年12月12日にノルウェー人画家の
Edvard Munch(エドヴァルト・ムンク、1863-1944)が生まれてから
150年の日である。同人にはたしかに超有名な
「叫び」(全5点。1893年の油彩がもっともポピュラー)があるが、
「Munch(ムンク)とカイユボットと広重と富士とゴッホ没後120年展」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/aacd8ff026061f9f9e632deb3465d6d9
で少しふれたとおり、ゴッホやカイユボットの影響を大きく受けてる。
「叫び」の構図もカイユボットの構図のパクリである。
生年的にもはや写実絵画も印象派も時代遅れで、
不安・恐怖を題材にして自身も鬱っぽい芸風で生き残った
ニッチ画家である。病弱、精神に破綻をきたしてたといいながら
80歳まで生きながらえた。が、
その最期はやや悲惨だった。ノルウェーは第二次世界大戦で
ナーツィスに侵攻された。ムンクはオスロ近郊の家を砲撃され、
家に風穴があいてしま、地下室で生活することを余儀なくされた。
北欧の寒い1月、老体には過酷だった。
衰弱して心筋梗塞を起こして死んだのである。が、
その葬儀はナーツィスによって執りおこなわれたため、
ナーツィス協力者というレッテルを貼られてしまった。ともあれ、
「叫び」といえば「盗難」というイメージが強い。同じく「絵画盗難」といえば、
もっとも有名なのがレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。
1911年8月にルヴル美術館から忽然と姿を消した「モナ・リザ」が2年4か月後、
フィレンツェで犯人からウフィッツィに売却の話が持ち込まれて発見された。
そうしてルヴルに戻ったのが100年前の1913年12月30日のことだった。
ダ・ヴィンチといえば「12使徒」の動揺を描いた「最後の晩餐」でも知られるが、
ムンクは"Freia(フレイア)"というノルウェーのチョコレイト工場の工場長と旧知だったよしみで、
社員食堂に「12」枚の"壁画"を描き残してる。いっぽう、
ゴッホはアルルで「12」人の画家の理想郷を作ることを夢見た。
ゴーギャンしか来なかったが、「12」脚の椅子を用意してたのである。
「ひまわり」も「12」本のものが多い。ゴッホは牧師の家に生まれ、
牧師になれなかった落ちこぼれである。自分をユダに喩え、
その服飾色である「黄」のひまわりを描いた。

日本では公家出身のくせに武者小路実篤が左翼思想に基づいた
「理想郷」を夢見た。武者小路や
日本の国語をフランス語にしろと書いたドアホウ
志賀直哉などが徒党を組んでた白樺派のひとりに、
里見とん(1888-1983)がいる。
(cf;「不良華族事件と里見トンのペンネイム(ゴンドラの唄スピンオフ:その1)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/fd98b7a540b1a8ada1f3f1efae09e83e )
同人は有島武郎の実弟でもある。
母方の山内(やまのうち)家を継いだので、
本名は山内英夫である。同人と
"鎌倉仲間"だったのが映画監督
小津安二郎(おづ・やすじろう、1903-1963)である。同人は、
「12」月「12」日に生まれ、還暦を迎える年の「12」月「12」日に死んだ
ゾロ目男である。ベヴィ・スモウカーらしく、喉頭癌に冒された。また、同人は
生涯「独身」だった。といっても、
容姿・人格がキモく頭髪も稼ぎも薄い私とは違って、小津は
洒落者で顔も整ってた。だから、モテたらしい。そのいっぽうで、
同性愛者だったという説もある。
里見とんには実際、少なくとも精神的にはそのケがあった。
兄有島武郎や有島生馬同様、里見とんも美男の部類に入る。
里見とんの四男坊で松竹映画のプロデューサーだった
山内静夫は現在88歳で健在であるが、やはり
美男(ナベツネを柔軟剤に浸けて品よくした感じ)である。

小津は戦前戦後を通じて54本の映画を撮ったらしい。そのうち、
最後の6作がカラーで、それより前はすべてモノクロだった。この頃、
ドイツのアグファ社の20年の特許権が消滅したのが、
各社総天然色に移行するきっかけとなったのである。そして、小津の
最後のモノクロが1957年(昭和32年)の「東京暮色」であり、
最初のカラーが1958年(昭和33年)の「彼岸花」だった。この
「モノクロ」→「カラー」
という変革作品それぞれに、小津は
「共通」の記号を配置した。「12」である。

JR東日本が3日前に、
上野駅と東京駅とを結ぶ新線「東北縦貫線(愛称は「上野東京ライン」)を
平成26年度末に開業すると発表した。これによって、
上野駅が終点だった東北・常磐・高崎の各3線が
東京駅まで乗り入れる形となるらしい。

モノクロ最後の「東京暮色」の終わりから2つ前のスィーンを、
北海道に帰る山田五十鈴とその相方中村伸郎が
上野駅の「12」番線、21時30分発急奥羽線廻り青森行き津軽号
に乗車させる演出にした。山田の実の娘のひとりである
原節子はついに見送りに来なかった、という場面である。そのとき、
プラットフォームでは明治大学の学生が同大の応援歌で
仲間を見送ってる箇所がある。小津は明大とは無縁だが、
現在の江東区深川で生まれた。
海辺橋の南、採茶庵のもう少し葛西橋通り寄りである。そして、
10歳で父の故郷である三重県松阪市に移るまで、
現在も存続してる公立の「明治」尋常小学校に通ってた。また、
盟友里見とんは40代のときに新設された明大文学部の
教授になってた時期があったのである。ちなみに、
この映画もその倅山内静夫がプロデューサーである。

片や、
カラー最初の「彼岸花」(これも山内静夫がプロデューサー)の初っ端のスィーンは、
東京駅「12」番線、15時21分の伊東行きの湘南電車が出たあと、
掃除人のふたりによる、新婚旅行に向かう花嫁たちについての
品評辛口問答である。当時の東京およびその周辺の新婚の
ハネムーンは熱海・伊豆がオーソドックスなものだったのである。ともあれ、
かようにして、小津は自らの生誕日である
「12」にこだわった演出をした。まるで、
仕様を替えたG1レイスで変更前年と変更後年に
同じ枠や馬や馬主や騎手や厩舎を起用するJRAのようである。

小津にはキリスト教への傾倒はなかったとは思うし、
この映画にもそうした宗教色はまったくないのだが、
「彼岸花」の里見とんの拙い原作小説には
「キリスト教」というキーワードが出てくる。
主人公平山の旧友三上の娘文子は映画では
本物の公家(明治には華族久我(こが)侯爵家)の生まれである
久我美子(こが・はるこ。芸名読みは、くが・よしこ)が演じて、
家出して男と同棲してスナックで働いてるが、原作では
同棲してた男が死んで平山に金銭援助を頼みにきたり、
修道院に出家してしまうつもりだから身元保証人になってくれとか、
キリスト様と結婚する道を選んだんです、みたいな話になってる。
里見とんの実兄有島武郎は人妻と不倫して
その夫に脅迫されて追いつめられて首吊り心中をした。
プロテスタントとはいえ、原則的には不倫も自殺も禁じられてるはずの
クリスチャンだったのに、である。また、
京都の浪速千栄子が娘山本富士子の縁談の工作に東京の病院へ
人間ドッグに入りにくるのだが、その病院が築地の、
もちろん、中沢新一が教義を指導したといわれる
オウムのサリン事件で治療にあたった新築の建物ではない
旧「聖路加国際病院」(聖公会)なのである。それから、
「彼岸花」の最初のほうの、中村伸郎の次女の結婚披露宴のスィーンで、
田中絹代:「三上さん、お見えになってないわね」
佐分利信:「うん。どうしたのかな、三上」
北竜二:「うん、来てないね、三上」
というセリフを3人に続けざまに言わせてる。これは、
日本語の会話としてはじつに不自然なので、故意に
「三上」を「3回」言わせてるとしか思えない。
(三上は笠智衆の役名)

それにしても、
セリフも不自然きわまりない拙い台本だったとはいえ、
当時の日本の演劇界はドヘタばかりだった。
「東京暮色」では中村伸郎、杉村春子の文学座組と山田五十鈴、
「彼岸花」では浪速千栄子、山本富士子、中村伸郎、十朱久雄、
以外は大根役者しかいない。ただし、
笠智衆はその大根ぶりが実直な日本人の姿をよく表してて
胸を打つのである。

さて、
映画にはタイトルの「彼岸花」は金輪際出てこない。が、原作では、
文子に会ってきた三上の妹が三上にその話をするときに、
こんなふうに「彼岸花」が登場する。三上の妹が
文子の大森のアパートから鎌倉の三上の家まで戻るときの話である。

[「あのね、往きには気がつかなかったんですけど、
帰りの電車で、程ケ谷へんからかしら、
あっちこっち、真ッ盛りの彼岸花で、それを見てるうちに、
……すうすうすうすう背後に流れて行く紅いもんが、だんだんぼやけだして、
……あんな華美な色で、どうしてこうも、
……いいえ、ちっとも悲しいわけじゃアないんですけど、
どうしてだか、へんに涙が零れちゃってね……」
「ふーん、彼岸花でなア」
 次第に兄妹の眼前を、にじんだ紅さがいっぱに立ちこめて行った。]

昭和23年、皇太子(現、今上天皇)御誕生記念日である12月23日に
東條英機以下7人の絞首刑を池袋の巣鴨プリズンで執行した戦勝国軍
(つまり、天皇陛下の身代わりとして
この7人のA級戦犯を死刑にしたんだぞ、という脅し)は、
神奈川県横浜市保土ヶ谷区の
久保山火葬場でその遺体を火葬し、その遺骨を遺族に返さず、
勝手にどこかに散骨したという(つまり、捨てた)。
彼岸花は全部が有毒で、とくに鱗茎は猛毒である。
「死人花(しびとばな)」とも呼ばれる。
6枚の花弁をつけるがその染色体は3倍体なので減数分裂ができず、
種で増えれない、という花なのである。

小津は初めてカラーで撮るにあたって、米国イーストマン・コダック社製でなく、
ドイツ・アグファ社製のフィルムをあえて使った。そのため、
全体の発色が"くぐもった"感じになってて、
カラー作品とはいえ、侘び寂びの趣である。ただし、
赤い小道具をこれでもかこれでもか、というほど
小津は画面に配してもいるのである。

また、
佐分利信の旧制中学の同窓会では、笠智衆が詩吟を唸ったあと、
皆で唐突に唱歌「桜井の訣別」を歌い出す。
小津は少年の頃、尾上松之介のチャンバラ映画を観て、
映画好きになったという。尾上松之介は初期の主演作
「石川軍記」で楠木正具役を演じたとき、目をかっと見開いた演技をした。
そこから「目玉の松っちゃん」と呼ばれるようになった。
小津はこういうのが好きだったのである。ともあれ、
その「楠木」は正成・正行父子の「楠木」と血縁関係はないものの、
ひょっとしたら小津は同族と思いこんでたのかもしれない。

モノクロ最後の「東京暮色」では笠智衆の次女役有馬稲子が
踏切に飛び込んで電車にはねられて死ぬ。いっぽう、
カラー最初の「彼岸花」では今度は長女役有馬稲子が
佐田啓二と結婚することに猛反対だった佐分利信が
二人を許して広島に会いに行くという
列車のスィーンで終わりとなる。が、
実生活では子がいなかった小津は、映画では
娘が結婚であれ死であれ父から離れてく際の悲しみを題材にした。
実生活で長年同居してた母親が死んだ翌年、小津は
御茶ノ水駅を眼下に見る東京医科歯科大病院で、
誕生日である「12」月「12」日に死んだ。というわけで、
本日2013年12月12日は、小津安二郎の
生誕110年、および、没後50年の日にあたる。その死はちょうど
60歳となった日であり、ドロシー・ゲイルのように
「12」歳ではなかった。だから
小津の墓はエメラルド・スィティでも小日向でもなく
北鎌倉(鎌倉市山ノ内)の円覚寺にある。ちなみに、
一列おいた列の同じく端には、やはり同性愛者説があった
木下恵介の墓がある。
「二人の世界」があるから、だから強く生きるんだ。が、
竹脇無我ではなく、小津の墓石にはただ
「無」と書かれてるだけである。
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