本日は、米映画俳優の
Alan Ladd(アラン・ラッド、1913-1964)が死んで
50年の日にあたる。昨年死んだ
Julie Harris(ジュリー・ハリス)女史
(cf;「映画音楽『エデンの東』(ヴィクター・ヤング編曲)/ジュリー・ハリスの死にあたって」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/df7c4a9ee555418a536986cc0e7efd44 )が
TVスィリーズ「コロンボ」の
"Any Old Port in a Storm(邦題=別れのワイン)(1973)"
の中で、夜分に自宅にまで捜査に来たコロンボに対して、
10時からアラン・ラッドの映画を観たいんですけどと
いやな顔をする場面があった。その映画は
グレアム・グリーンの小説"A Gun for Sale"を映画化した
"This Gun for Hire(1942)"
というフィルム・ノワールで、(対戦中につき)日本未公開作品である。
ヴィデオ化されて「拳銃貸します」という邦題がつけられた。が、
それらは出放題の誤訳である。
Gunは銃そのものではなく「ピストルを使う殺し屋」という意味の名詞、
for Hireまたはon Hireで「雇われてる状態」を表す副詞句、で、
拳銃を貸すわけではない。もっと高度な(higher)な意味である。
原作のほうも「拳銃売ります」などと訳されてるが、
「拳銃での殺し屋、仕事受付中」という意味である。映画も
「拳銃の殺し屋として雇われてるのはこの男だ」
というような意味である。ともあれ、
この映画の女性主人公役ヴェロニカ・レイク女史は
殺人の依頼者に騙されて警察に追われるアラン・ラッドを
"助ける"という役柄なのである。コロンボの中のハリス女史も同様に
犯人ドナルド・プレザンスを庇う証言をして妻の座を得ようとする。が、
それくらいだったら捕まったほうがいい、
嵐のときには選り好みできないのだから
どんなにしょぼい港でもいい(だろうか、いや違う)、
というように、プレザンスはコロンボにお縄になるのである。つまり、
同じく男を助けるとはいっても、レイク女史のほうは、
地味で辛気くさい設定のハリス女史のキャラとは正反対の、
セクスィな女という設定なのがウィットである。
ともあれ、
アラン・ラッドといえばやはりなんといっても
"Shane(邦題=シェーン)"(1953)である。カムバック! である。
カムバックでもいい、逞しく育ってほしい、である。
帰ってこいよ、である。松村和子女史、ではないである。
"Shane(シェイン)"とは、Johnのケルト族における呼びかたである。つまり、
ヨハネなのである。預言者なのである。シェインとは、
悪辣な家畜業者Ryker一家を撃ち殺して、
このワイオミングの善良な開拓者たちに神の意志を示し、
自らは犠牲となって消え去る預言者だったのである。ちなみに、
NYの刑務所であるRikers Islandは、Rikerと改名した
オランダ人入植者Abraham Rycken(アブラハム・ライケン)の子孫から
NY市が1884年に購入して以来刑務所の島となってる。ひょっとしたら、
この映画の悪役の名はここから採ってる(iをyに替えて)のかもしれない。
精神的に問題があったアラン・ラッドの代表作となった「シェーン」だが、
ディレクターのジョージ・スティーヴンズは、「陽の当たる場所」で起用した
モンゴメリー・クリフトをシェイン役に、ウィリアム・ホウルデンをスターレット役に、
キャサリン・ヘプバーン女史をその夫人役に想定してた。いずれにせよ、
スティーヴンズは「ジャイアンツ」のジェイムズ・ディーンといい、
実生活でも危うく脆く常に影が付きまとう俳優を好んで起用した。
この映画の最後でシェーンはヴァン・ヘフリン扮するスターレットに代わって
ライカーとその用心棒ジャック・ウィルスン(ジャック・パランスが演じてる)を
ボブ・マンデンとまではいかないまでも
「超早撃ち」で仕留める。が、
実際にはアラン・ラッドはリヴォルヴァーをほとんど扱えなかったという。劇でも、
二階に潜んでたライカーの弟のモーガンのショットガンに撃たれてしまうのである。
"Shane, look out!"
と叫ぶジョウイ少年の声で振り向きざまに撃ち返して仕留めたものの、
自らも被弾してしまう。
悪党を仕留めて去ろうとするシェインにジョウイ少年はここに留まってと言う。が、
"Joey, there's no living with, with a killing.
There's no going back from it.
Right or wrong, it's a brand, a brand that sticks. "
「(拙大意)ジョウイ、人を殺したらお終いなんだ。
もう取り返しがつかないんだよ。
どんな理由があったとしても、人殺しっていう烙印は一生消えないんだ」
とシェインはジョウイに悲しい目で訴える。そして、こう続ける。
"There's no going back.
Now you run on home to your mother and tell her,
tell her everything's alright,
and there aren't any more guns in the valley."
「(拙大意)だからもう君の家には戻れないんだ。
さあ、早く家に帰ってお母さんに知らせるんだ。
全部片付いたよってね。
この(山間の村)あたりにはもう銃で脅かされる心配はなくなったってね」
そう諭すシェインにジョウイは縋る。が、
"Shane, it's bloody. You're hurt."
「(拙大意)シェイン、血が出てるよ。撃たれちゃったの」
とシェインが銃弾を浴びて深傷を負ってることに気づく。が、
" I'm alright, Joey.
You go home to your mother and your father.
And grow up to be strong and straight.
And Joey, take care of them, both of them."
「(拙大意)おじさんは大丈夫だよ、ジョウイ。
お母さんとお父さんが君の帰りを家で待ってるぞ。
いいか、強いまともな大人になるんだぞ。
それからな、ジョウイ、お母さんとお父さんを大事にするんだぞ。
お母さんもお父さんも二人ともだからな」
とシェインは騎乗で気丈に振る舞うのだった。その言葉にジョウイは、
"Yes, Shane."
「(拙大意)うん、わかったよシェイン」
と素直に頷く。が、
強いと信じてたシェインが撃たれてしまったことに動揺の色を隠せない少年は、
"He'd never have been able to shoot you ... if you'd have seen him."
「(拙大意)あいつはシェインを撃つことなんかできなかったよね……シェインにあいつの姿が見えてたら」
と悲痛な疑問をぶつける。が、
"Bye, little Joe."
「(拙大意)じゃあな、可愛いジョウ」
とだけシェインは穏やかに別れの言葉を口にするのだった。
まともに対決したらやつには抜く暇もなかったさとはっきりと言ってほしかったジョウイは、
"He never even would have cleared the holster, would he, Shane?"
「(拙大意)あいつはベルト(ホウルスター)から抜くことさえできなかったよね、そうだよね、シェイン?」
と食い下がる。が、
シェインはもう何も答えず、その背中は次第に小さくなって遠ざかってくのだった。
そして、あの有名な、
「シェイン、カム・バック!」
という呼び声がこだまするのである。
シェインを乗せた馬は小高い丘に進むが、すでに馬上のシェインに生気はない。そして、
そのシェインと馬が墓場を進むところでディ・エンドとなる。
この一巻の終わりの場面で、ヴィクター・ヤングの
"The Call of the Faraway Hills"(邦題=遙かなる山の呼び声)
が感動的に被されるのだが、この主題は、
♪ドー<ミ│<ソーー・ーーー・・ーーー、・>ドー<ミ│
<ラー>ソ・ーーー・・ーーー、ドー<ミ│
<ソーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー、レー<ミ│
<ソーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー、>ドー<レ│
<ミーー・<ソー<ラ・・>ソーー・ーー>ミ│
>レーー・レー<ミ・・>レー>ド・>ラーー│
<ドーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー♪
という、ラフマニノフばりに息の長いものである。が、前半は
【ド<ミ<ソ】と【ラ>ソ】が執拗に繰り返され
【ラ>ソ>ミ>ド】が添えられる。これはつまり、
♪【ド<ミー<ソ<ラーー>ソ>ミ>ド>ラ>ソソ】♪
というベートーヴェンの【レオノーレ】なのである。
レオノーレはフィデーリオという男に化けて夫を救う。
シェインはスターレット一家や村の民を"救った"のである。
後半の
【ド<レ<ミ<ソ<ラ>ソ>ミ】は、
やはり7人のマグニフィセントな男たちがメキシコの民を救う
「荒野の七人」でエルマー・バーンスタインが
♪【ドー・<レー│<ミー・<ソー・・ーー・<ラー│
>ソー・>ミー】・・>ドー・ーー│ーー、<ドー・・ドー>ラー│
>ソー・<ラー・・>ドー・<レー│ミー・>ドー・・ーー・ーー♪
と踏襲した。
アラン・ラッドは1962年に心臓を狙った拳銃自殺未遂を起こし、
その2年後、アルコールとドラッグを大量摂取して死んでるのを発見された。
Alan Ladd(アラン・ラッド、1913-1964)が死んで
50年の日にあたる。昨年死んだ
Julie Harris(ジュリー・ハリス)女史
(cf;「映画音楽『エデンの東』(ヴィクター・ヤング編曲)/ジュリー・ハリスの死にあたって」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/df7c4a9ee555418a536986cc0e7efd44 )が
TVスィリーズ「コロンボ」の
"Any Old Port in a Storm(邦題=別れのワイン)(1973)"
の中で、夜分に自宅にまで捜査に来たコロンボに対して、
10時からアラン・ラッドの映画を観たいんですけどと
いやな顔をする場面があった。その映画は
グレアム・グリーンの小説"A Gun for Sale"を映画化した
"This Gun for Hire(1942)"
というフィルム・ノワールで、(対戦中につき)日本未公開作品である。
ヴィデオ化されて「拳銃貸します」という邦題がつけられた。が、
それらは出放題の誤訳である。
Gunは銃そのものではなく「ピストルを使う殺し屋」という意味の名詞、
for Hireまたはon Hireで「雇われてる状態」を表す副詞句、で、
拳銃を貸すわけではない。もっと高度な(higher)な意味である。
原作のほうも「拳銃売ります」などと訳されてるが、
「拳銃での殺し屋、仕事受付中」という意味である。映画も
「拳銃の殺し屋として雇われてるのはこの男だ」
というような意味である。ともあれ、
この映画の女性主人公役ヴェロニカ・レイク女史は
殺人の依頼者に騙されて警察に追われるアラン・ラッドを
"助ける"という役柄なのである。コロンボの中のハリス女史も同様に
犯人ドナルド・プレザンスを庇う証言をして妻の座を得ようとする。が、
それくらいだったら捕まったほうがいい、
嵐のときには選り好みできないのだから
どんなにしょぼい港でもいい(だろうか、いや違う)、
というように、プレザンスはコロンボにお縄になるのである。つまり、
同じく男を助けるとはいっても、レイク女史のほうは、
地味で辛気くさい設定のハリス女史のキャラとは正反対の、
セクスィな女という設定なのがウィットである。
ともあれ、
アラン・ラッドといえばやはりなんといっても
"Shane(邦題=シェーン)"(1953)である。カムバック! である。
カムバックでもいい、逞しく育ってほしい、である。
帰ってこいよ、である。松村和子女史、ではないである。
"Shane(シェイン)"とは、Johnのケルト族における呼びかたである。つまり、
ヨハネなのである。預言者なのである。シェインとは、
悪辣な家畜業者Ryker一家を撃ち殺して、
このワイオミングの善良な開拓者たちに神の意志を示し、
自らは犠牲となって消え去る預言者だったのである。ちなみに、
NYの刑務所であるRikers Islandは、Rikerと改名した
オランダ人入植者Abraham Rycken(アブラハム・ライケン)の子孫から
NY市が1884年に購入して以来刑務所の島となってる。ひょっとしたら、
この映画の悪役の名はここから採ってる(iをyに替えて)のかもしれない。
精神的に問題があったアラン・ラッドの代表作となった「シェーン」だが、
ディレクターのジョージ・スティーヴンズは、「陽の当たる場所」で起用した
モンゴメリー・クリフトをシェイン役に、ウィリアム・ホウルデンをスターレット役に、
キャサリン・ヘプバーン女史をその夫人役に想定してた。いずれにせよ、
スティーヴンズは「ジャイアンツ」のジェイムズ・ディーンといい、
実生活でも危うく脆く常に影が付きまとう俳優を好んで起用した。
この映画の最後でシェーンはヴァン・ヘフリン扮するスターレットに代わって
ライカーとその用心棒ジャック・ウィルスン(ジャック・パランスが演じてる)を
ボブ・マンデンとまではいかないまでも
「超早撃ち」で仕留める。が、
実際にはアラン・ラッドはリヴォルヴァーをほとんど扱えなかったという。劇でも、
二階に潜んでたライカーの弟のモーガンのショットガンに撃たれてしまうのである。
"Shane, look out!"
と叫ぶジョウイ少年の声で振り向きざまに撃ち返して仕留めたものの、
自らも被弾してしまう。
悪党を仕留めて去ろうとするシェインにジョウイ少年はここに留まってと言う。が、
"Joey, there's no living with, with a killing.
There's no going back from it.
Right or wrong, it's a brand, a brand that sticks. "
「(拙大意)ジョウイ、人を殺したらお終いなんだ。
もう取り返しがつかないんだよ。
どんな理由があったとしても、人殺しっていう烙印は一生消えないんだ」
とシェインはジョウイに悲しい目で訴える。そして、こう続ける。
"There's no going back.
Now you run on home to your mother and tell her,
tell her everything's alright,
and there aren't any more guns in the valley."
「(拙大意)だからもう君の家には戻れないんだ。
さあ、早く家に帰ってお母さんに知らせるんだ。
全部片付いたよってね。
この(山間の村)あたりにはもう銃で脅かされる心配はなくなったってね」
そう諭すシェインにジョウイは縋る。が、
"Shane, it's bloody. You're hurt."
「(拙大意)シェイン、血が出てるよ。撃たれちゃったの」
とシェインが銃弾を浴びて深傷を負ってることに気づく。が、
" I'm alright, Joey.
You go home to your mother and your father.
And grow up to be strong and straight.
And Joey, take care of them, both of them."
「(拙大意)おじさんは大丈夫だよ、ジョウイ。
お母さんとお父さんが君の帰りを家で待ってるぞ。
いいか、強いまともな大人になるんだぞ。
それからな、ジョウイ、お母さんとお父さんを大事にするんだぞ。
お母さんもお父さんも二人ともだからな」
とシェインは騎乗で気丈に振る舞うのだった。その言葉にジョウイは、
"Yes, Shane."
「(拙大意)うん、わかったよシェイン」
と素直に頷く。が、
強いと信じてたシェインが撃たれてしまったことに動揺の色を隠せない少年は、
"He'd never have been able to shoot you ... if you'd have seen him."
「(拙大意)あいつはシェインを撃つことなんかできなかったよね……シェインにあいつの姿が見えてたら」
と悲痛な疑問をぶつける。が、
"Bye, little Joe."
「(拙大意)じゃあな、可愛いジョウ」
とだけシェインは穏やかに別れの言葉を口にするのだった。
まともに対決したらやつには抜く暇もなかったさとはっきりと言ってほしかったジョウイは、
"He never even would have cleared the holster, would he, Shane?"
「(拙大意)あいつはベルト(ホウルスター)から抜くことさえできなかったよね、そうだよね、シェイン?」
と食い下がる。が、
シェインはもう何も答えず、その背中は次第に小さくなって遠ざかってくのだった。
そして、あの有名な、
「シェイン、カム・バック!」
という呼び声がこだまするのである。
シェインを乗せた馬は小高い丘に進むが、すでに馬上のシェインに生気はない。そして、
そのシェインと馬が墓場を進むところでディ・エンドとなる。
この一巻の終わりの場面で、ヴィクター・ヤングの
"The Call of the Faraway Hills"(邦題=遙かなる山の呼び声)
が感動的に被されるのだが、この主題は、
♪ドー<ミ│<ソーー・ーーー・・ーーー、・>ドー<ミ│
<ラー>ソ・ーーー・・ーーー、ドー<ミ│
<ソーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー、レー<ミ│
<ソーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー、>ドー<レ│
<ミーー・<ソー<ラ・・>ソーー・ーー>ミ│
>レーー・レー<ミ・・>レー>ド・>ラーー│
<ドーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー♪
という、ラフマニノフばりに息の長いものである。が、前半は
【ド<ミ<ソ】と【ラ>ソ】が執拗に繰り返され
【ラ>ソ>ミ>ド】が添えられる。これはつまり、
♪【ド<ミー<ソ<ラーー>ソ>ミ>ド>ラ>ソソ】♪
というベートーヴェンの【レオノーレ】なのである。
レオノーレはフィデーリオという男に化けて夫を救う。
シェインはスターレット一家や村の民を"救った"のである。
後半の
【ド<レ<ミ<ソ<ラ>ソ>ミ】は、
やはり7人のマグニフィセントな男たちがメキシコの民を救う
「荒野の七人」でエルマー・バーンスタインが
♪【ドー・<レー│<ミー・<ソー・・ーー・<ラー│
>ソー・>ミー】・・>ドー・ーー│ーー、<ドー・・ドー>ラー│
>ソー・<ラー・・>ドー・<レー│ミー・>ドー・・ーー・ーー♪
と踏襲した。
アラン・ラッドは1962年に心臓を狙った拳銃自殺未遂を起こし、
その2年後、アルコールとドラッグを大量摂取して死んでるのを発見された。
久しぶりにpassonbbbさんの投稿文を」拝読しました。
「シェーン」は映画では見ていなくて、テレビで視ましたので、カットされていたかも知れません。
私の現役時代の上司が大変なシェーン・ファンでした。
アラン・ラッドは子どもの頃の会話で早撃ちガンマンの3番以内に入っていたのですが、投稿文を拝読すると銃は苦手だったようですね!(笑)
「歴史は夜作られる」のジーン・アーサーが、あの地味なお母さん役で出ていたのには驚きました。
きらびやかな女性だとの印象がまるっきり違って、驚きました。
上司とシェーンは生きていたのか、死んでしまったのか話し合ったのがなつかしいです。
やはり死んでしまったのですね!
生きていて終わって欲しかったです。
コメント、ありがとうございます。
馬上で死ぬことは否定しようもありませんが、かといって、
シェインの死は暗示であって物語の中の現実の部分の死というわけでもないですね。
日米戦争で日本人の死生観を目の当たりにした米国文化人層のカルチャー・ショックが
戦後の米映画に色濃く出てる一例です。
それでなくても自己犠牲の生涯しかありえない捨て駒のミツバチのハタラキバチ(すべてメス)は
ヒトを刺すと自ら死ぬことになるにもかかわらず刺しにいく、
という榎本三恵子女史のロッキー山脈なみに気高い教訓や、
インド哲学観、あるいは、弁慶の立往生咄をふまえて、
シェインとその死を非キリスト教的に崇高にするために、
現実の死を避けてるんでしょう。だから、
ぶざまに絶命するスィーンをあえて撮らなかったのです。
また、時代もあるでしょうが、
G・スティーヴンズは「ドメスティック・リアリズムの巨匠」と呼ばれたわりには
「神は細部に宿る」とは考えてなかった映画監督で、
芝居の世界で過度のリアリティがナンセンスだということを悟ってた人物でした。
撃たれたはずなのにその箇所を押さえたり血を滴らせたりはしない。
ジョウイ少年が「イッツ・ブラディ!」と言ってるのに血は映ってない。
大道具がそれなりに整い、小道具が意味ありげに配置されてればそれで事足りる、
演技は拙くていい、というタイプですね。
アラン・ラッドの銃のスィーンも、
黒澤明の恥ずかしくなるほどデタラメな立ち回り(殺陣)場面なみに
拙かったり吹き替えだったりしてますね。
ジョウイ少年役のBrandon deWildeは芝居はヘタですが、それでもなお、
この映画を感動的にする"小道具"としてはまさに適役でした。
この少年はこの映画以後も役者を続けたのですが、
たいした役もなく、30歳のときにデンヴァーの舞台に出演してました。
2度目の妻を見舞いに病院に向かうデンヴァー郊外の道で
ガードレイルに衝突して交通事故死しました。
同じく交通事故死するジェイムズ・ディーンといい、
交通事故を起こして顔をメチャメチャにして孤独死したモンゴメリー・クリフトといい、
拳銃自殺を図るも失敗してヤク中になってやっと死ねたアラン・ラッドといい、
G・スティーヴンズは「悲の魅力が一般大衆に与える感動」を持つ
「死の影がちらつく役者」を見抜くことに
じつに長けてた監督だったのでしょう。
ps;ジーン・アーサー女史はずいぶんと年食ったお母さんです(当時52歳)。
キャスティングはディレクターの仕事ではないかもしれませんが、
そこにもスティーヴンズのアンチ・リアリティが如実に出てます。